第32話

「じゃあ私のことは、はるかって呼んで」

そう言うと、持ってきたノートを一枚破りそれを半分に折って切った。片方の紙に何かをさらさらと書き始めたかと思うと、そのメモと白紙とペンを僕に渡してきた。

天野あまの、はるか?」

「そう、は・る・か。それとチャットアプリのユーザー名も書いたから、晴人はるとくんも」

ごく自然に下の名前で呼ばれたことと、連絡先を交換しようと言われていることにしばらく気付かず突っ立っていた。「三年生来ちゃうよ?」と言われてようやく我に返り、慌ててペンを走らせた。


小さな紙を持って、音楽室を後にする。廊下に出てしばらくしてから、周囲を見渡した後そっと紙に書かれた文字を見返す。顔がにやけるのを抑えることができない。堪えきれず僕は小さくガッツポーズをして、喜びを噛み締めた。そして無くさないように四つ折にしてブレザーのポケットに忍ばせると、冷たくて硬いものが手に触れた。惚れ薬の小瓶だ。音楽室に来た何度目かの時に天野先輩、いや、はるかさんに使ったことを思い出す。

「これは、本物だ」

僕はポケットに手を突っ込んだまま思わずスキップをした。

そしてそのまま廊下の角を曲がった時だった。

「うわ!」

「きゃっ!」

誰かと思い切りぶつかってしまった。僕はバランスを崩して尻もちをつく。

「ご、ごめんなさい!大丈夫ですか?」

「気をつけなさい!」

お叱りの声が上から降ってきた。相手は一緒にいた人に支えてもらったようで転んだわけではなさそうだったが、その顔を見て血の気が引いた。本校始まって以来のミス・パーフェクトと噂される生徒会長、東堂とうどう万梨子まりこが僕を見下ろしていたのだ。

「東堂さんが怪我をしたらどうするの!」

生徒会長の後ろに控えていた男女二人組みの一人がものすごい剣幕で言い放った。もう一人のがっちりした男子も口こそ閉じていたが鬼のような形相で僕を睨みつけ、今にも殴りかかってきそうだった。

「いいのよ、おやめなさい」

生徒会長がいさめると、二人はスッと後ろへ下がった。

「そこの二年生くん、いいかげん立ちなさい。いいこと?廊下は走らない、授業には遅れない。分かったら早く教室へ戻りなさい」

「は、はい!すみませんでした!」

僕は競歩の選手になったつもりで、腕をしっかり振りながらでき得る限りの早歩きをした。ひたすら生徒会長が見えないであろうところまで必死に歩く。

階段を降りると、三年生の教室棟と二年生の教室棟を結ぶ連絡通路を全速力で駆け抜けた。ここまで来ればもう大丈夫だと、教室の前で一息ついた時自分の手を見て愕然とした。悠さんが書いてくれたメモの紙を握り潰していたのだ。反射的に手を開いてしまい、クシャクシャになった紙が床に転がった。急いで拾い上げ、破かないように手汗でほんのり湿気を帯びたメモを丁寧に開くと、幸い中の文字は無事だった。

僕は胸を撫で下ろし、太ももで紙を伸ばしてきちんとたたみ直すと、再びブレザーのポケットに滑り込ませた。

「えっ・・・」

小瓶がない。

さっきまであったはずなのに。

制服のポケットというポケットを叩きまくって探したけれど、見つからない。

転んで手を付いた拍子に落としてしまったんだろうか。


キーン、コーン、カーン、コーン


探しに戻ろうと思ったが、無情にも授業開始のチャイムが鳴る。

僕は迷った挙句体が引き裂かれそうな思いで、自分の教室へと急いだ。

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