第30話

「わっ、びっくりした!」

「よ、呼んだんですけど夢中で弾いてたから」

できる限り自然な笑顔をキープしつつ、小瓶をブレザーのポケットにねじ込んだ。彼女がこちらを向ききる前に何とか入れられたようで、特に不審がる様子もなく花のような笑みを僕に向けている。このまま時間が止まればいのに、なんて考えていると先輩人差し指が僕の鼻っ面に突きつけられた。

「でも、無防備な女の子の後ろに立つなんて、あんまり関心しないな」

先輩の表情がキッと厳しいものになった。全くおっしゃる通りで、僕は「あ、いや、その」とか何とか言うのが精一杯だった。スケベ心があったわけではないけど下心といえばそうとも言うし、つい見とれてしまって無意識に近づいたという類のものではないけど、驚かそうとか悪意はなくて、とにかくぴったりな言葉が見つからず口をパクパクさせるしかなかった。美しい蛇に睨まれた間抜けな蛙みたいな僕は、ただただおろおろするばかり。

「まぁ、ピアノ弾いてる時は誰だろうと気付かないんだけど」

僕の顔に鋭く注がれていた視線がふっと緩み、その表情は自虐にも照れ隠しにも見えた。そしてごく自然な流れで、あまの先輩の指は鍵盤を優しく撫でた。

「ほんとに好きなんですね」

「ピアノを弾いている時は、ぜーんぶ忘れられるから」

そう言うとまたスッと背筋を伸ばし、少し切なげな旋律を奏で始める。どうやらここに来るまで僕が聴いていたのと同じ曲の続きらしい。外から聞こえる雨音と目の前のしっとりとしたピアノの音色がとても心地いい。僕はその音が生まれる指先をぼんやりと見つめていた。

「弾いてみる?」

再び演奏が止まったと思ったら、驚きの提案を浴びせられた。しかも、あまの先輩は腰を浮かせ、僕に席を譲ろうとしている。

「えっ、無理です無理です!弾いたことないし、さっきの曲が何かすら分からないし・・・」

「この曲?これはショパンの『雨だれ』。たしかに誰でも知ってるって感じの曲じゃないかもね」

「でも今日みたいな日にはぴったりですね」

それから僕らは休み時間が終わるまでショパンについて話した。「僕ら」なんて言ったけれど、ほとんどあまの先輩が僕に色々聞かせてくれたというのが正確だと思う。

「こないだ聴いた曲、結構いいなと思いました」

僕がそう言うと、水を得た魚のように目を輝かせながら話してくれた。初めて会った時に弾いていたのはマズルカといって、民族舞踊を基に作曲したんだそうだ。マズルカと一口に言っても、変ロ長調とか第何番とか色々あるらしく言葉だけだと嗜みのない僕なんかにはさっぱりだった。それに曲や音のことを話す、あまの先輩のその顔はとても楽しそうで、とても綺麗だったからドキドキしっぱなしで、細かいことはあんまり頭に入らなかった。

チャイムが鳴る直前、あまの先輩が時計の指し示す時間に気付き、またしても大慌てで音楽室を出た。

「話が途中になっちゃったから、ジョルジュ・サンドについては次までの宿題ね!」

そう言って、あまの先輩は3年生の教室に続く階段へ向かった。


僕はその日の昼休み、早速図書館へ行き、検索機を探し当てると端末のキーを叩いた。

「ショパン、ジョル・・・なんだっけ?」

自分の記憶力を呪いつつ、一先ずショパンについて書かれた本を探すことにした。意外にもスポーツ関係の本がある棚の近くにあり、すぐに見つけることができた。とりあえず一冊だけ借りて読んでみることにした。

教室に戻ると、光と航太がうちのクラスに遊びに来ていたらしく何人かと喋っていた。僕に気付いた光がこちらに手を振ってくる。思わず本を持っていた右手を上げてしまい、表紙の「ショパン」の文字を見せ付ける格好になる。

「あれ~?晴人、本なんか持ってどうしたの?」

「しかもショパンとは、どういう風の吹きまわしだ」

「え?あ、これは・・・宿題、なんだけど」

上手い言い訳が全く思いつかず、あまの先輩の言葉をそのまま言ってしまった。同じクラスの友達は怪訝な顔をしている。どうやってこの場を乗り切ろう。

「個人的な宿題で、なんていうか、ちょっと調べようかなぁくらいのやつ」

僕は、あまの先輩から聞いたことを思い出せるだけ喋って時間を稼いだ。でも、ここで僕の話に耳を傾けている連中はほとんどが音楽、それもクラシックに興味があるようなタイプでもないからどんどん空気が白けていく。休み時間よ早く終われと、いつもなら考え付きもしない言葉が脳裏に浮かんだ。

「モーツァルトとかリラックス効果があるから練習に取り入れる選手もいるらしいな」

予想に反して航太が話に乗ってきてくれて、そのまま話題が僕が借りた本から離れていった。もしや航太も榎原さんからの受け売りか?なにはともあれ、あまの先輩のことを話さずに済んだので航太に感謝した。



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