第17話

帰ってからも、ぼんやりしてみたり急にはしゃいでみたり、我ながらおかしかった。自分の成し遂げたことの重大さに浸っていると、突然あの時の木下きのしたのうなじが鮮明に浮かんできて、夢じゃなったんだという充実感で顔がにやけてしまう。明日学校に行きたくなくて、行きたくて、どうしようもない。行き場のないむず痒さと誰かに言ってしまいたい衝動でじたばたしていた。部屋にこもって一人言葉にならない興奮で思わず「あーっ」っと言ってみたりとにかく落ち着かなかった。

僕にもとうとう運が向いてきた。もしかするとひかるもこんな思いだったのじゃないだろうか。航太こうたは待とうって言ったけど、案外聞いて欲しいと思っているかもしれない。今度こっそり聞いてみよう。少しだけ、学校に行きたい方へ天秤が傾いた。


始業式の日。

今日もしっかり惚れ薬をふりかけて、意気揚々と家を出る。山に囲まれた田舎だけあって、夏でも朝は清々しいほどだ。昨日も通ったはずの道が何とも言えず澄み切っている気がして、何度も深呼吸する。僕の春の幕開けを祝福してくれているかのような真っ青な空が眩しい。はやる気持ちを抑えながら鼻唄まじりに登校した。

教室に着くと、夏休みの思い出話の花がそこかしこで咲き乱れていた。

「俺、東京にいる兄ちゃん家に遊びに行ってさー、人多すぎてビビったわー」

「女の子可愛かった?」

「お前そればっかじゃん」

僕も土産話の輪に加わろうかと思っていると、入り口の方から声がした。

晴人はると―!」

振り返ると航太が廊下から覗き込むような格好で、こちらに手を挙げて合図してきた。昨日も会ったばかりなのにわざわざ何だろうと不思議に思いながら入り口にかけよる。

「おはよう、どしたの?」

「今日どっかで軽く自主錬しないか?」

「えっ、自主錬・・・?あ、あぁ、もちろん!僕もそのつもりでジャージとか持ってきてあるんだ!」

そうだった。始業式の日は部活がないことをすっかり忘れて、何の疑いもなく諸々の道具を学校へ持って来てしまった。木下の反応を見るのは明日に持ち越しのようだ。

「ん?あそこ着替える場所ないんじゃないか?俺は一回帰るぞ?」

「え、そうだっけ?でも先に行ってトイレかなんかで着替えるよ」

とっさに誤魔化してしまった手前、うっかり持ってきたとも言い出せずそのまま学校から直行する羽目になった。制服がシワにならない様に気をつけないと。半ば呆れたような顔をしていた航太だったが、どうでもよくなったのかたまに走りに行くいつもの公園で落ち合おうとだけ言うと、自分のクラスへ戻っていった。

ほどなくして久々に聞くチャイムの音が鳴り、先生が教室へ入ってくる。皆がいっせいに自分の机やら別の教室めがけて動き出す。女子の笑い声やザザザっとうごめく様な音がしばらくおさまらなかった。僕のクラスの担任は静かになるまで黙って待つタイプの教師で、いつものようになかなか話し出さない。何人かがその空気を察し始めだんだんとざわめきがおさまってきた頃、ようやく先生が口を開いた。

「おはようございます」

「おはようございまーす」

「2年生も折りかえし地点にきた。3年生、最上級生への準備期間はもう始まっているということを自覚して、残りの半分、気を引き締めて過ごして欲しい。それと同時に・・・」

僕の心を言い当てるような言葉にドキリとした。今思うと恥ずかしいくらいに浮かれていた自分に言い聞かせる。

気を引き締めて。春はまだまだ、始まったばかりなんだから。

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