第8話
返事を聞きたい、と呼び出された大学の敷地内で、そういえば一年の頃、ここで先輩に別れをつげたなと思い返していた。
電話でさよならをいおうとしたら、まだ少しでも俺に気を使ってくれる気持ちがあるなら、せめて直接言ってくれと言われて仕方なく足を運んだ。
「あ、ごめん、遅れた。」
ばたばたと足音をたててAが寄ってきた。いつもよりも視線が落ち着かない、神経質な指先も、そわそわと服をあちこちなぞっている。
「あの、さ、別に断るなら、気にしないでよ。」
そういう言い方、好きじゃない。
「・・・アメリカは、ちょっと、遠いし、遠距離だし。」
じわりじわりと真綿で首を絞められるような言い方。やっぱり好きじゃない。
ふいに手元のスマートフォンが揺れて、画面に目をやった。
『こっちで、終わらせないといけないこと、片つけて、日にちあえば、本当に会いに行く。』
「うん。」
「えっ、えっと、なに?うん、って・・・。」
彼への返事を打ち込み終えて、私は顔をあげた。
「いいよ、付き合おう。」
ぱっとAは表情を明るくして、やった!と叫んだ。うれしい、どうしよう、と動き回るA。
彼なら、情熱的に抱きしめて、人目につかないようにこっそりキスでもしただろうか。
『本当に来てくれるなら、嬉しいな、待ってるよ。』
オーブンは予熱済、180度ぴったり。一晩寝かせた生地と、傍らに準備するアイシングのセット。
やがて漂う甘いにおい、さて、とオーブンを開いて一番近い一つを口に運ぶ。
「熱くないの?」
「ちょっとね、けど、うん、上出来。」
サクサクとした生地、しっかり焼けていて、ちょっと焦げたものも見えるけど、まあご愛嬌。
背後から柔らかく抱きしめて私の手のクッキーをねだる。ん、と差し出すと指までぱくりと口に含んだ。湿った舌の感触。
「うん、うまい。さすがだね。」
「でしょう。」
にっこり笑って振り返りざまにキスをする。深い海色の瞳に、笑う私が映っていた。
サヨナラでくちづけ。 織部さと @ogwyuko
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