第4話

 「大丈夫?」

 熱のこもった彼の視線はいつものような強気な力がない。できる限りの元気な声で私が問うと、彼は悪戯っぽく笑って上半身を起こし、私の首筋に顔をうずめた。眼鏡がかちりと後頭部に当たったが、私は彼の呼吸一つも逃さないようにと左側の首に全神経を集中させることに必死だった。

 しばらくたって彼はいつもの合図のように、首筋に舌を這わせた。その異常な熱さに驚いて少し肩を揺らしつつも、今日はだめでしょう、と彼を押し戻した。彼はほんの一瞬だけ、残念そうな顔と声をあげたが素直に体を離した。

 再びベッドに横になる彼は私に向かって両腕を伸ばす。求められたことがわかって、そっと彼を抱きしめた。身体中が熱くてぽつりとそうつぶやくと耳元で彼は楽しそうに笑った。

 私はそのぬくもりで眠りに引き寄せられ、次に目を開けた時、私が顔をあげると彼はまだ楽しそうにこちらに笑顔を向けていた。つられてふふ、と笑い顔をベッドに沈めると彼は優しく私の髪を撫でた。

 ああ、とため息に近い声が漏れる。

 なんて愚かな行為だろう。

 嘘まみれで、不純で、純粋で、懸命で、惰性の愛が、今この瞬間溢れて止まらない。

 あと一センチでも二人が離れてしまえば、すぐに消えてしまうような愛が。


 帰る寸前、もう一度私が彼を抱きしめると、彼はふらふらと立ち上がって玄関まで見送ってくれた。手を振ってドアを閉め、蛍光灯に慣れ切っていた目に動揺しているうちに、後ろからそっと鍵のかけられる音がした。


 たとえば、

 いつものように私は考える。

 今ここに彼の彼女が来るのだ。彼が、うちには滅多に人が入らないし泊まらないと言ったことが本当なら、彼女はなんというのだろう。

 もしかするとこんなことには慣れきっていて、私を見てほんの少し笑うかもしれない。

 はたまた思い切り私をにらみつけて、先ほどしまったばかりの鍵をこじ開けて彼を高圧的にののしる。

 ことによると彼女はすべてをすでに知っていて、するりと私のそばを通り過ぎて慣れた手でチャイムを押し、弱った彼のほほに手を寄せ、心配気に顔を覗き込む。彼はそれに合わせて笑い、大丈夫だよと彼女の髪を撫でる。

 腕がしびれているのに私が離れるまで腕枕をやめない彼は、私の頭の中でも上手に笑っている。


 安心してよ。

 私は脳内の彼女に語り掛ける。

 私たちはわかっているのよ、あなたから彼が離れないことを。

 私たちをつなげている糸はもっと細くて頼りなくて汚い。

 私も、彼も、情はあっても愛情は無いのよ。





 目はもう、すっかり夏の日差しにも慣れていた。彼に合わせて温度が高く設定されていたはずのエアコンが恋しくなるほどに暑い。

 彼がベッドで戯れで噛んだ肩は、もう彼の唾液すら残っていない。もちろん跡一つない。

 私は身一つ、ほとんど無防備に、敵ばかりの世界に放り出されたのだ。

 誰かにつなげてもらわないといけない、

 ほとんど無意識に私はすっかり覚えたAの番号を押していた。


 「良かった、僕もちょうど会いたかったんだ。」

 声だけでもAの笑顔が思い浮かぶ。照れたような、少し不安気な声だ。


 電話を切って振り返る。相変わらず彼の部屋のドアはぴったり閉ざされていて、彼女のヒステリックな怒鳴り声も献身的な微笑みも見つけることはできない。しん、としたマンションの廊下にはただ、私と、日差しだけが揺らめいている。

 

 

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