DAY
硬くてやわらかい石のような鍵盤を叩く。そうすることが何か、呼び水になるようなことでもなく、叩いた先から何かが伸び行く。白い壁に囲われた部屋で、その光溢れる、窓の開け放たれた、しかし霊安室のような静けさを感じさせるそこで、ただひとり鍵盤を叩いている。ひとつひとつそのブロックを押し込んで行く。何も聞こえないが、うんざりもしない。風がカーテンを叩くのを、目で追ったりしている。
そういうことをしたのが朝だ。却って不機嫌になることもなく、昼食の準備を始めた。もちろん太陽の歓迎を受けて室内にも光が弾けており、食パンを切った手の先の包丁も光を跳ね返している。今朝から随分明るかったので、気持ちも晴れやかだった。パンにはさんだソーセージも、先程までは熱で泡立つ油を従えて、今もおいしそうな肉の匂いを放ってくる。豚のそれだ。レタスとソーセージとケチャップ、サンドイッチはこうでなくてはならないと、私は考えるでもなく、ただ単に、今すぐ口の中に放り込んでその素晴らしい食感、匂い、様々な薬味や興奮に咳き込んでしまいたいのである。
人間は、感じたことのない感触を想像することはまず出来ない。しかし、自分には何かが欠けていると、どう認識すればいいだろうか? 目が見えない? 右足がない? あるいは、算数が出来ない? それを理解できる理屈は、何一つないような気がする。目が見える感触、右足がある感触、1+1が理解できる感触――――いや、1+1はあからさまなのだが、単純に考える場合の話なのです――――それらの感触、感覚を、体験したことがなければ、妙な話、一生理解することができないのではないだろうか。まあ、これくらいのことはどこかの偉い学者が謎を解いているだろうとかそういうことは思わずに、他愛もない暇つぶしだ。
そんなことより、レタスとソーセージとケチャップとパンが冷めてしまうのである。そんなことをしでかしたら、もういちどオーブントースターで1分ほど焼きなおす羽目になり、大変だ。急いで食べよう。
こういうことをしたのが昼だ。ならば夜は? 決まっている。昼食に使った実に実直な色合いと質感の木の卓と、同じようなイスを巧みに使い、夕食を取る。夜に夕食? 夕に・・・何食? まあいいから、今朝の爽やかさと打って変わって、打撲みたいな食事にしようと――――皿をまず洗った。
いいですか、そろそろ1000文字を越える、一日の略歴です。ご賞味あれ。
ところで、私は大変頭が良いので、昼食に使った食パンは良い具合に、上手いこと保存してあったので、食パンの白い、滑らかしっとり、指に吸い付く美味しいスポンジのような感触は残されたままなのです。いやいや、大したことではないのです。それに、もう少しで牛肉のバターたっぷりステーキが出来上がるところですから、その匂いがたまりませんね。どうです? ワインでも用意しましょう。あなたの指先と乾杯したいな…………。ははは、楽しみでたまりませんな。食パンは何切れ食べますか? 私は3切れだ。ははは……。
石の齟齬 志木冬 @sikitou
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