彼女は夢現を越えて

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彼女は夢現を越えて

 心が満たされない。誰と話しても満たされることは無い。空虚な時の流れにただ身を任せているだけの人生。

 その日もまた、同じような時間を過ごしていた。


「全く分からないな……」

 講義のノートを読み返すも、その内容は難しすぎる。はっきり言ってしまえば、僕に勉学の才能は無いだろう。幸いなのは、迷惑をかける親もいない事。いや、親がまだいればもっと必死に勉強したのかもしれないけれど。

「また留年するようなら中退でフリーターの方がまだマシかな」

 進路選択を誤った事も今の自分を形作ったのかもしれない。もう少しやりがいのある所だったならば違ったのだろうか。


 二時間近く粘ってはみたものの、一向に成果は出ない。自分一人の力ではどうしようもない事を悟った以上、これ以上続ける価値も無いだろう。そう思った僕は、「日課」を始める事にした。何てことは無い、ただのゲームだ。

 ゲーム機の電源を入れソフトを開始すると、開けた世界がモニターに広がった。いつも見ている、あまりにもなじみ深い風景。澄んだ青空を翔る鳥たちも、広がる自然を疾走する動物たちも、現実以上にいきいきとして見える――それは、僕にとってどれだけ現実というものが倒錯してしまったのかを物語るようだった。でも、構いはしない。

 そして大草原の中に佇む一人の少女が映し出される。黒いスカートと赤いエプロンは牧歌的な雰囲気を生み出している。一方膝にも届く銀色の髪と儚さを感じさせる顔、色白な手足はまるで人形のよう。

 彼女の上に文字が表示されている。ロレッタ、それが彼女の名前だ。コントローラーのスティックを倒すと彼女は走る。自分の意のままに動く少女を見て、頭の疲れも、そしてよどんだ気分も晴れていくみたいだった。

操作のままに、牛や羊に笑顔で餌を与えたり、色々な所を回ったりする、そんな彼女を見るこの時だけが、言うなら満たされた状態だ。これを始めてからもう何年も経っているが、飽きる事も無い。このゲームはオンラインゲーム――遠くに見える山を越えた先ではファンタジー全開の世界が、剣と魔法の世界が広がっている、けれど僕はこの雰囲気に惹かれた。ただ彼女と……ロレッタと向き合っていられるこの世界が。


しばらく続けていると、時計の針が真上で重なっているのが目に入った。

「もう寝ないと……」

惜しみつつも電源を落とす。

「おやすみ、ロレッタ」

 そして、僕が眠りに落ちるのにそう長い時間はかからなかった。



 目を開けるとそこはまた見慣れた風景だった。そう、あの大草原。それがおかしいとも思わず、僕は駆け出した。そこには……彼女がいた。

 彼女が――ロレッタが振り向く。やはり、間違いは無かった。僕を満たしてくれる彼女が。

「……こんにちは」

「あっ……こ、こんにちは」

 小さく、でも口元に笑みを浮かべて彼女は挨拶をしてきた。対して僕は、自分から近づいておきながら戸惑って口を濁してしまう。恥ずかしい……その思いを汲み取ったのか、彼女は優しい言葉をかけてくれる。

「ここにはわたしとあなたしかいないの。恥ずかしがらなくても大丈夫……あ、牛とかはいるけど」

「そ、そうなんだ」

「ところで、あなたはわたしを知っているけれど」

 ロレッタが背を向ける。その先には大きな山がそびえている。この世界を隔絶する壁が。

「わたしにも、あなたの事を教えて欲しいの」



 その日から、僕は毎日のように彼女の夢を見るようになった。夢の中の彼女は現実以上にリアルで。本当に自分の見ている夢なのかと疑うほど、彼女との会話はまるで自然な出来事であるように思えた。自分に都合のいいものだとは分かっていた。だけど、そうだとしても。空っぽの心にあたたかいものを注いでくれる。ロレッタは僕に好意を向けてくれる。


 でも。彼女はゲームの中、或いは夢の中だけの存在。その事実が現実に帰った時の僕の気持ちを落とす。いつしか僕は考えるようになった。現実にも彼女が、ロレッタがいたら――と。


「あなたは……いつも寂しそう」

「寂しそう?」

「そう。できるなら、わたしも……あなたの側にいたい。何よりも近くに……」

 夢の中とはいえ、嬉しかった。そして、目が覚めると……いつも以上に、寂しかった。

 

 その日だった。大学からの帰りに、見覚えのない店が開いているのを見つけたのは。



「人形の……読めない」

 ボロボロの看板は、辛うじてその店が人形を売っているのだろうという事だけを教えてくれた。とはいえ、特に用もないからと立ち去ろうとして。

「お兄さん」

「え?」

「立ち寄って……くれないのかい?」

 老婆が残念そうにこちらを見ていた。



 店の中に入ると、様々な人形が並んでいた。漫画やアニメではそんな光景をおどろおどろしく描くかもしれないけれど、店内は明るく、落ち着きあって、そして不気味さを感じさせない。

「あの人形、さっきは俯いていた気がしますけど」

「ん?」

「今、こっち見てますよね」

「ああ、あの子は買ってくれる人が来るのをいつも待っててね。客が来るたびに期待の眼差しを向けてるのさ」

 ……僕が多分買わないであろうと気付いたのだろう。次に視界に入った時は最初見たとき以上に俯いており、そして女の子の泣いている声が聞こえた。

「わたしこんなに可愛いのにぃ……」

 人形が動くなんて、言葉を話すなんてありえないはず。それが目の前で起きているというのに何も不気味に感じないのは……いや、あれを不気味に感じろというのも無理な気がしてならないけれども。いい人に買ってもらえるといいね――完全に他人事として、僕はその人形の置かれた場所から立ち去った。


 老婆に店を案内してもらっていると、人形の腕が目に入った。腕だけじゃない、脚や頭部、それに……目も。人形の各部品がその一角には置かれていた。

「買って組み立てる人もいるんですか?」

「時々いるよ。理想を形作るにはそれしかない、ってね」

「理想……」

 ふとロレッタの姿が頭に浮かぶ。彼女はどんな感じだっただろうか? 腕は、脚は、顔は、その瞳は――


 その日の夜、大きな鞄を持って僕は帰宅した。家事をこなした後にその鞄を開けると、そこには人形の体、腕、脚、その全ての部品が揃っていた。

「よし……やるか」

 僕はそれぞれに手をかける――それは、ただ一つだけの方法。彼女を現実へと映し出すための。




 その人形が組みあがったのは二週間近くが経過した頃だった。各部位と胴体を繋げるだけと思ったが、ゴムを引っかけ、通したり、その他色々、かなりの労力をかける事になった。……それでも長い時間がかかったねとあの店の老婆には言われたが。僕は不器用なのだろう。

「ほら、これだよ」

 老婆から渡された紙袋。それには……ロレッタの衣装が入っていた。素晴らしい出来にただただ感動するしかない。

「久しぶりだよ、服を作ったのはねえ」

 満足した匠の表情を見せる老婆に感謝しつつ、僕は急ぎ自宅に戻ると人形に服を着せた。そして……少なくとも、ロレッタの形となった人形が完成したのだった。

「ロレッタ……」

 夢の中で見た彼女と全く同じ。違うのは球体関節だが、それは仕方ない話か。むしろ、人形のように見えた彼女を実際に人形として見ると、また更なる魅力が見えてくるようで、思わず顔がほころんでしまう。

「可愛いな……」

 現実にも満たされる。遂に……僕は、彼女と現実を生きられるのだ。





 そう思っていた。そう、満たされるはずだった。だというのに、なぜ僕は今日もむなしい現実の中にいるのか。

 何にも身が入らない。相変わらず講義の内容も分からないし、満たされない日々を送るだけ。夢を見るだけが楽しみである事は変わらなかった。


「いつもより、寂しそう」

「そう……かな」

 今日もまた夢の中へ。こんな事を考えてしまったからか、今日の僕は自分でも分かるくらい落ち込んでいた。動かないとはいえ、せっかく現実にロレッタを連れてこれたのに、どうして僕はこんなに落ち込んでいるのだろうか。


……いや違う。むしろ、動かない彼女を見る事で、それが夢であると。幻であると。ロレッタがいないという事実を強く感じてしまっている。声をかける彼女を見て、それに気づいた。


気付けば涙を流していた。ロレッタは僕の側にいてくれる――ただ、それすらも今日は辛かった。現実に帰れば彼女はいないのだ。彼女の形をしたものしかない。

「ごめん、ロレッタ……僕はもう」

「……」

 彼女は悲しそうな顔をすると、少しずつ薄れて……周囲も薄れて、そして。



 真っ白な場所に僕だけが残った。




 そして長い夢が終わった。僕は無気力なままにまた日々を過ごし始めた。空っぽに戻った日々は以前以上に色を失い、モノクロ写真のような視界が広がっている。

 あの日からは夢を見る事も無くなった。夢から残されたゲームはもう幻想でしかない。そして僕は全てを失った。現実に彼女を呼ぶことは言い換えれば、僕を現実に呼ぶことだったのかもしれない。

 そして、あの人形。僕は……怖かった。いつか、僕は彼女を壊してしまいそうで。だから、そうなる前に。


「どうしたんだい、それは」

「引き取ってください……僕が持っていたら、きっと――」

「……分かった。お兄さん、あんたはいい人だよ」

「え?」

 老婆はそれっきりで店に入ってしまい、そして……僕も、店から離れた。これで終わりだ。

 家に帰った僕はゲームのデータを消し、そして家から彼女の痕跡は消えた。


 さようなら、ロレッタ――僕は、眠りについた。




 そんな日に限って、夢を見た。



 あの大草原に僕は立っていた。まるで何もなかったかのように広がる世界。どうして? なぜここに? 僕は戸惑うばかりだった。だが、周囲を見渡していると一つだけ違う所に気が付いた。

 彼女が。ロレッタがいない。

 いや、彼女が去ったというよりは僕が去ってしまったのだろう。全てを消し去っても、僕はこうして心残りがあるという事だろうか。いや、そうに違いない。

 そよ風が吹いて、草原が。そして僕のスカートが揺れる――



 スカート?


 僕は自分の体を見下ろした。それは見間違えることのない、彼女の、ロレッタの。

「わたしはあなたの側にいたいの」

 口が開き、彼女の声が聞こえる。今、僕は彼女だった。側にいたかった――、ロレッタは、その側から消し去ってしまった僕を恨んでいるのだろうか。

「ようやく、わたし……あなたの側にいられそう」

 ……え? それって、どういう

「今まで、寂しい思いをさせてごめんなさい……これからは、ずっと一緒だから」

 ずっと一緒……

「もう夢じゃないから」


 その時、また周囲は薄れ始めた。あらゆるものが消えた後には――彼女と僕が残った。



 目を覚ますと、今日も空しい日々が幕を開ける。あんな夢を見た後では、尚更気分は落ち込むばかりになる。ここにロレッタは

「いるから、安心して」

 勝手に口が開くと、自分のものではない声が聞こえた。驚き辺りを見渡そうとしたものの、何が起こっているのか体は勝手に動き、洗面台の鏡の前に向かって歩いて、そして。

「ロレッタ……」

「そう、わたし」

 口が開く。一つは自分の言葉、そしてもう一つは彼女の言葉として、同じ声が響く。鏡の中にはロレッタが。自分が組み上げた、人形のロレッタが立っていた。間違えるはずが無い。夢の続きだろうか? でも、人形の体でありながら感じるそれは、かすれた日常の感覚と同じだった。

「もう寂しい思いなんてさせないから」

 彼女はクルリと回って見せる。髪が、スカートがふわりと広がり、そして彼女は笑顔を見せた。

 そして、僕も笑った。





「あの子たち、うまく行ったみたいだね。あたしも、嬉しいよ」

 老婆は満足そうに空を仰ぐ。太陽はあの二人を祝福するかのように輝いていた。






 数日後、またあの店で。

「楽しいかい?」

「だってロレッタが何着ても可愛くて……」

「そ、そんなに褒められると恥ずかしいよ」

 色々な服を着て楽しむ。ロレッタには何でも似合う。と思う。それに僕自身、可愛い服で着飾ることが楽しくなっていた。

 人生――人形も「人」って付いているから多分人生でいい――毎日充実しています。

「一人コントは見ていて飽きないねえ……」


 今の状態になって最初に気付いたのは、大学の事だった。そう、僕という存在は消えてしまい、ロレッタは大学に居場所が無い。この事実に気付いた時には二人揃って固まったが、老婆の店に転がり込んでみたら老婆は僕たちを店員として雇ってくれた。これで何も心配はいらなくなった。元々親はいない身だった事も加えて。

 心配事が無くなったら色々と試してみたいことも増えて、その一つがこれ。他にも、女声ボーカルの曲を歌うなど、この人形の少女の体を楽しんでいる。時には人形らしくじっと座ってみる。それも何だか楽しい。

 何より、どんな時でもロレッタが側にいる。だから、寂しくない。人から見たらおかしいようにも見えるだろうけれど、実際に二人いるのだから。

「ちょっと店を開けるから、留守番頼むよ」

「はーい」


 老婆が出た後にも、僕達はやりたいように。

「次は何着ようかな?」

「あ……わたし、あれがいいな」

「じゃあ、それにしようか」

 楽しい日々は、続く。

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