第十一話
そのガスは、政府の極秘研究の一つ、自白剤の開発の途上にほとんど偶発的に発見された。いわゆる幻覚剤というやつで、吸い込むと一瞬で脳髄まで到達し、吸引者に幻覚や恍惚感、多幸感を与える。身体への危害は一切ない。だがその効果は歴史上のどの幻覚剤よりも強く、一度吸引すると二度と精神が現実に戻ってくることはない。摂食などの生理的行動も自発的には行わなくなり、まさしく廃人状態となる。その実用性の低さから取り扱いに苦慮していた政府が地下に貯蔵していたものを蓮が掘り起こし、この計画に使用する運びとなったわけである。
里見知事がこのガスを特居住人処分の手段に選んだ理由は、まず一つにその正体の秘匿性にあった。一般的な毒ガス、銃火器その他では大量使用により足がつく可能性がある一方、存在自体が明かされていないこのガスならばその心配はない。二つ目はこのガスが分子として安定性を欠くことがあげられる。空気中の酸素と容易に反応して二酸化炭素等のごく普遍的な気体分子に分解されてしまうため、使用した証拠も残らない。この悪魔的な計画を里見の口から聞かされたとき、蓮は改めてこの政治家の末恐ろしさを実感したものである。
さて、そろそろガスの層が腹のあたりまで浸食してきたところであろう。蓮が壁に設置されたパネルに手をやると、その下から呼吸器のマスクが現れた。マスクを引き取り装着する。蓮の様子からただならぬ状況を察した住人の一部が蓮につかみかかろうとする。しかし急激な移動によって攪拌され舞い上がったガスを吸い上げた住人はすぐに正気を失い、その場に倒れこんだ。ほかの者もそれに続いて、次々と倒れ笑顔でうずくまる。彼らはみな幸せな夢を永遠に見続けるのだ。
この場にいる全員の吸引を確認した蓮は事前の打ち合わせ通り出口の方まで歩き、ドアに手をかけた。
…しかし、である。ドアが開かない。
押してダメなら引いてみる。開かない。
引いてダメなら横にずらしてみる。…やはり開かない。
蓮はその場に倒れこんだ。呼吸器のマスクに手を添える。この呼吸器に内蔵されている酸素の量では六時間が限界であろう。
* * *
幼いころの蓮にとって、小汚く人疎らな特居こそが世界であり、そこですべてが閉じていた。
成長にしたがって行動範囲が広がり、特居中を自らの庭として走り回るようになったある日、とある疑問が生じた。
あの壁の向こうに何があるのだろう?
まず母に聞いてみた。まともな返事はない。次々と新しい酒の瓶を空け、無言のままあおるのみである。
仕方がないので他の者に聞いてみた。三人ほどに母と同様の視線を浴びせられた後、四人目の老人がようやく口を開いた。
「本当の世界だよ」
「ほんとうの?」
「そう、あの向こうには、飢えもないし病もないし、人の心もここほど荒んじゃいない。この世の苦しみがからっきし消えた、まさに本当の世界だよ」
老人は独り言を言うように語りかけた。
「僕たちはほんとうじゃないの?」
「そうだよ。私たちは、偽物の世界で生きている。生かされている。本当の世界で生きることは許されてないんだよ」
「なんで許されないの?」
「…私たちは偽物だから、なんじゃないかい」
老人はそう言ったきり、何も言わなくなった。
この老人は、欲望と事実を取り違えている。蓮はそう感じた。
自分の置かれた醜悪な環境がこの世の全てであってほしくない、どこかに桃源郷が存在してほしいという、宗教的と言ってもいいような幻想を壁の向こうの未知の世界に託しているのだ。蓮にもその願望は理解できたし、そんな答えを暗に期待もしていた。だからそれ以上老人を詰問することはなかった。
結局、蓮は壁の外がどうなっているかを知ることはできなかった。分かったのは、そんなことを知っても自分たちにはどうしようもないという、元も子もない事実だけであった。
ある日、蓮の妹が生まれた。父親が同じかどうかは分からない。ただ蓮の母親から生まれた子なのだから妹と呼んでよいであろう。蓮はその子を妙と名付け、その世話を一身に背負った。母はというと妙の世話のすべてを蓮に託し、懐妊前の自堕落な生活に戻っていた。
妙はおとなしく手のかからない赤ん坊だった。泣くよりも笑うことが多く、兄の姿を見るたびに庇護欲を掻き立てるあの無邪気で本能的な笑顔を見せた。小指を押し付けると、その小さな手のどこにそんな力を秘めていたのかと問い詰めたくなるほど強く握り返す。そんな妙の一挙一動が新鮮で、狂おしかった。
妙がようやく二つの足で歩けるようになったころ、蓮が売られることになった。だいぶ高値が付いたらしい。あなたが器量よしでよかったねと母は喜んだ。売って得た金は妙の養育に充てると言った母の後ろには、見たことのない種類の酒の空瓶がいくつも転がっていた。
本当の世界。偽物の自分たち。蓮の頭にかつての老人の言葉がよぎる。
その夜、蓮は母の目を盗んで妙を持ち去り、家と称するにはあまりに乏しいあばら屋を飛び出した。行き先は巨木広場である。
本来、壁の中と外の往来は出入り門で行われるが、あそこを通るには管理局の人間に通行許可願いという名の賄賂を渡す必要がある。当時の蓮にはそんなことは不可能だったし、第一この時間では門はとっくに閉まっている。
そこで目を付けたのが、壁際の巨木広場にそびえる、壁の高さを優に超える巨木である。あの枝まで上がれば壁を超えることもできるのではないか。そう考えた蓮は、かつてそこから脱出する方法を考え、準備をしたことがあった…あの時は実践に移す勇気が出せずに頓挫してしまったが、今回は違う。
蓮は木の根元のあたりを探しだした。なにが楽しいのか、背中の妙がキャッキャッと騒いでいる。まわりの住人に聞こえはしないかとひやひやするが、境界付近の人口密度は特居のなかでも低い。気づかれる心配はないだろう。もし気づかれたとて、他人に無関心な彼らはわざわざ邪魔などしないだろう。
見つけた。前回隠したところより微妙にずれた場所に無造作に置かれている。おおかた他の子どもに見つかり、好奇心のままもてあそばれた後ここに返されたのだろう。ちゃんと箱の中にすべての付属品を返しているあたり変に律儀なやつである。箱の中からその機械を取り出す。見た感じでは動作に問題なさそうだ。
それが軍事用ヒューマノイドに付属されていた射出機構の横流し品だと知ったのは後々のことであり、当時の蓮はただのよくできたおもちゃぐらいに捉えていた。その射出機構にちょっとした改良を加えたこの銃に、同じく箱の中に収納された自作の鉤縄の縄を通して鉤の部分を銃口にセットする。
どこから撃つのがいいだろうか?…辺りを見渡し、広場近くの廃屋に目をつける。蓮は妙とともにこの廃屋に侵入し、巨木に面する窓に銃を設置した。妙を廃屋の朽ちたベッドの上にゆったりとおろし、銃の向きを整える。狙いは巨木の、壁より上に生える枝の根元である。
一度目、失敗。
二度目、ニアミス。
三度目、手応えあり。だが強度に不安が残る。
自分一人ならともかく、日に日に体重が増えている妙をおぶった状態ではいつ鉤が外れるとも知れない。相変わらず楽しそうにはしゃぐ妙をとりあえずその場に放置し、一人で巨木に向かった。
縄を伝い枝の上まで到達した蓮は、鉤を枝から引き抜き縄を手繰って枝にねじ結びを施した。もう一本、壁の外に出るための縄をぶら下げ、同様にねじ結びする。これなら大丈夫だろう…そう安堵した蓮は、ふと顔を上げた。
朝日の輝く、広大な地平線。
淡く赤い光が柔らかく照らす、区切りのない、終わりのない地上。
涙が頬をすっと流れるのを感じた。
慌てて涙を拭いて妙を置いた廃屋に戻ると、兄貴がいなくて退屈していたのか呑気に寝息を立てていた。起こさないようそっと抱き寄せ、縄を伝って木を登る。腕の筋肉はもうとっくに悲鳴を上げているが、そんなことにかまっている暇はない。なんとか無事に壁を乗り越えた蓮は、どこへともなく走り出した。
どこでもいい。ただ、妙が幸せに生きられる世界を目指して。
そして日もすっかり上がったころ、蓮は森の中であの女…牧野里見に出会った。のちに聞いた話だが、里見はこの時すでに特居で行われている研究や管理局の癒着に目をつけていて、その探りを入れていたらしい。
蓮はこの通りすがりの女性に妙を差し出した。
自分のことはどうなっても構わない。いや、自分の命を代償にしていい。だからこの子を…妙を幸せにしてやってほしい。壁の外の、『本当の世界』で生かしてやってほしい。蓮はそう彼女に訴えた。
彼女は困惑するでも、嘲笑するでもなく、こう言った。
「いいけど、今のあなたじゃ安すぎるわね」
そして蓮の顔をしげしげ覗き込み、なにかを決心したのか、すくっと立ち上がった。
「ついてきなさい、あなたを女の子にしてあげるから…命を払うのは、まだ早いわ」
* * *
「…今がその時なんですね」
蓮は襟の小型トランシーバーに問いかけた。もちろん応答はない。目の前ではガスを吸い込んだ人々が幸せそうな顔を浮かべながら倒れている。本人たちは天国、はたから見ればとんだ地獄絵図である。
蓮は目を閉じた。
(ごめんな妙ちゃん。埋め合わせ、できそうにないや)
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