第九話
都庁、執務室。
細田蓮と牧野都知事は翌日の第八特居解体作業に関する最終確認を行っていた。
「まさかここまでうまくいくとは思わなかったわね。全部あなたのおかげだわ」
「まだ終わったわけではありません」
蓮は里見の称賛を冷静に返した。
「それもそうね」
里見は不敵な笑みを浮かべた。
「自分の故郷を裏切るのって、どんな気分なのかしら」
「別に何も思いませんよ。あそこには恨みこそあれ、懐かしさなんて微塵も感じていませんから」
「でも住人たちから情報を得るために自分の出生はちゃっかり利用したでしょう?」
「仕事のためですから」
「あなたのそういう乾いたところ、嫌いじゃないわ」
「それはまたどうも」
蓮の反応はやはり冷静である。まるでわざと感情を殺そうとしているようだ。その様子を里見は察したようだ。
「もしかして、緊張してるのかしら」
「緊張…ですか?」
蓮は下唇をかみしめた。
「緊張というより…迷いかもしれません。本当にこれが正しいのかどうか…」
「正しいとか正しくないとか言ってるようじゃ、まだまだね」
里見は安楽椅子から立ち上がった。
「私たちの仕事は一般市民の生活と人生をよりよくすること。私たちは凡夫が無知のまま幸せに暮らすために選ばれた代表者。だから私たちは私たちを選んだ民衆の代表として地獄に落ちる覚悟が必要なの」
「そうは言ってもですね」
蓮の声も無意識に大きくなる。
「あそこの住人をガスでまとめて廃人にして地下に隔離するなんて、あまりにも前近代的ですよ!」
「あそこの住人自体が前近代的だもの、妥当だわ。殺さないだけ感謝してほしいわね。…それに、男どもの野蛮な戦力を無力化するにはこれしかないわ」
「彼らを騙してまで、ですか」
「騙される方が悪い。この世界の真理ね」
蓮はまた下唇をかみしめたが、すぐに何かを察したのか、後ろを振り返った。
「どうかしたの?」
「いえ…なにかいたような気が…」
「臆病になりすぎよ。あなたらしくもない」
「すみません…」
二人は確認作業に戻った。
* * *
エレベーターで都庁の最上階に到着した鳴海と妙は、そのまま執務室と思われる部屋へと歩いて行った。鳴海は気が進まないのか、いつもよりはるかに歩む速度が遅い。
執務室の前に立ち、ノックをしようとすると、中から人の声らしき音が聞こえた。
(防音処理してないのか…そもそもここに人が来ることが想定されてないのかな)
そんなことを思った鳴海の耳に、蓮のものと思われる大声が聞こえた。妙の前ではいつも優しい蓮のこんな声を聞くのは初めてだ。ところどころ、はっきりと判別可能な単語がある。
「あそこの住人…………まとめて廃人……………隔離……」
鳴海はノックする手を止め、妙の方を向いた。妙も状況を把握したらしい。
(すぐに帰ろう)
鳴海がハンドサインで合図すると、妙も頷き、そのままエレベーターまで音を立てずに速足した。
* * *
都庁近くの自然公園まで逃げ出した鳴海と妙は二人きり、池の水面を眺めていた。都庁から出るときはむろん例の名刺の職員には連絡せず、その場にいた別の職員の力を借りた。
日はもうとっくに南を通り過ぎ、だいぶ西に傾いていた。
「なんか、嫌なこと聞いちゃったね…」
初めに沈黙を破ったのは妙であった。
「うん…」
「あの人たちを受け入れるところが、どこにもないんだろうね」
「うん…」
「お姉ちゃんも関わってるのかな?」
「うん…」
「…なるちゃん、聞いてる?」
「…え、あ、ごめん」
鳴海は池を眺めていた虚ろな目を上げた。そして何かを決心したように、妙の方を向いた。
「ごめんたーちゃん、私、もう帰っていい?」
「…帰ってどうするの?」
妙の声の調子が下がる。こんな声の妙は初めてだ。
「帰って、もう寝る」
しばしの静寂。
「なるちゃんはさ…」
妙の声からは、いつもの自分であろうとしていることがヒシヒシと伝わった。
「嘘をつくとき、声が半オクターブ上がるんだよね…この前、はじめて知ったよ」
そして、いつもの笑顔とは絶対に違う、作為的な笑いを見せた。
「こんなこと、知りたくなかったなぁ」
「嘘って…」
「嘘でしょ?」
妙はきっぱりと断定した。
「特居に行くつもりなんでしょ」
「え…なん、なんで?さっきからたーちゃん、なんかおかしいよ??」
図星であった。声が半オクターブどころか、一オクターブほど高くなっているのが分かる。
「やっぱり、そうなんだ」
妙の目は腫れかかっている。
「私、知ってるんだよ…手のひらに怪我してたあの日、特居にいたって。それを私に黙っているって」
鳴海は何も言わない。
「…なんで、特居に行きたいの?」
とぼけても無駄なことは分かり切っていた。
「なんでって…だっていくらなんでも、みんながかわいそうでしょ?詳しくは分からないけど…何かされるのは確実だし…」
「嘘の次は建前なんだね」
「建前…?」
「だってそうでしょ?あそこの人たちがどうなろうと、なるちゃんには関係ないよね?なるちゃんが危険な目にあう必要はないよね?」
妙は早口でまくしたてた。優しげな口調に、怒気が混じる。妙の変調に鳴海は動揺した。
「それはそうかもしれないけど…」
鳴海は妙に背を向けた。
「やっぱり、行かなきゃ」
立ち去ろうとする鳴海だが、妙に背中を引っ張られた。振り返ると、涙の溜まった両の目に自分の姿が映るのが見える。目を見開き動揺する自分の姿。思えば彼女が涙を見せるのはこれが初めてである。笑い泣きですら見たことがない。TVのコメディを見て大笑いする鳴海の横で、そんな鳴海を見ながら嬉しそうにほほ笑むのが妙である。「コントより私が可笑しいか、この無礼者!」などとじゃれていた頃がひどく昔のことに思える。
「私ね…」
妙は鳴海の服の裾を強く握りながら、もう片方の手で涙をぬぐった。
「私、なるちゃんが、牧野鳴海が好き」
「へ…?」
突然の言葉で事態の把握に時間がかかる。
「私も、たーちゃんのこと好きだけど…」
「違うの。なるちゃんの好きと、私の好きは、全然違う」
妙は間髪入れずに反論した。
「これは多分、恋とか、愛とか、今の人たちはみんな忘れちゃってるような、そんな病気みたいな気持ちで…その人のことが頭から離れなくて、その人のことを想うと幸せで胸がいっぱいになって、その人がどっかに行っちゃうと、悲しくて、悔しくて、胸が張り裂けそうで…とてもわがままで、とても原始的な、そんな思いなんだよ…」
妙のせりふによどみはない。言葉があふれるように口をついて出る。
「ねえお願い…行かないで…どこにも行かないで…」
妙の頬を伝う一条の涙の跡を、黄金の西日が照らし出していた。
* * *
妙はふすまの奥から敷布団を取り出し、自身のベッドの横に広げた。
「なるちゃんとお泊りって、実は結構久しぶりだよね」
「中学以来、かな」
鳴海はそう言って妙の後ろからの方からふかふかとしてかわいらしいフリルのついた掛布団を空中でババンと広げ、掛布団を覆った。
「ごめんね、こんなわがまま聞いてもらって」
「ううん、たーちゃんの言う通りだもんね…私なんかが行ったところで、結局何も変わりはしない。無駄なこと、だもんね」
「そう言うと、なんか意地悪な感じだけどね」
そう言うと妙はふすまの奥からもう一枚の敷布団を引っ張り出した。
「あれ?たーちゃんも床なの?」
「うん…なるちゃんのすぐ隣にいたいから」
口調はいつもの妙そのものの優しく穏やかなものであったが、その言葉からは彼女の決意を感じた。
「はは…さては信用されてないなあ」
「信用が無いってのとは、ちょっと違うけど…あ」
「どしたの?」
「掛布団、一つしかないや」
その夜、鳴海は全く寝付けずにいた。決して布団に慣れてないからとか、枕が変わったとか、掛布団一枚を二人で共有しているからとか、そんなことが原因ではない…はずだ。横を向くと、妙のまだあどけなさの残る寝顔が満月の光に照らされている。
『その人のことが頭から離れなくて、その人のことを想うと幸せで胸がいっぱいになって』『その人がどっかに行っちゃうと、悲しくて、悔しくて、胸が張り裂けそうで…』
夕方の妙の言葉が頭を巡る。
一緒になって頭に浮かぶ光景がある。いそいそと水を飲む手負いの迷い猫を、無表情ながらどこか優しげに見つめる男の姿だ。口が悪く、目つきも善良には程遠い男の、哀しさに満ちた表情だ。
(恋、か…)
妙が寝返りを打ち、背を向けた。掛布団を巻き取って鳴海の分の面積が減る。
(ごめんね、たーちゃん)
鳴海は妙に気づかれないよう、ゆっくりと布団から体を離し、立ち上がった。
(だけど…ありがとう。おかけで私も病気なんだって気づけたよ)
この月明かりなら迷うこともなさそうだ。
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