第五話
特居に潜入してから一週間、鳴海はまた普段通りの日常を送った。
いや、普段通りの日常を送ろうとした。
しかし、ふとした拍子にコウスケの顔が浮かんでは消えて、鳴海の日常をいやおうなく妨害するのだった。
「なるちゃん、ほんとにどうしたの?」
妙が鳴海を覗き込む。
「え、何が?」
「何が?じゃないよ、ぼっ〜として。…お腹出して寝ちゃダメだよ?」
「いや、別に風邪引いたとかじゃないんだけど…」
「じゃあ何?」
妙の目は何かを疑っているようである。
「なんていうか…」
鳴海が返答に困っていると、
「もしかして、この前の映画の…ニャルなんとか?」
「あ、そうそう!いやーあれ以来クトゥルフの邪神たちに心奪われてねぇ」
鳴海は嘘をついた。妙に嘘をつくのは初めてだ。
「やっぱり、そんなことだろうと思ってたよ…」
妙はそう言ってため息をついた。それ以上追及するつもりはないようで、鳴海は心底ほっとした。
「そうだ、今度の日曜だけど…」
妙は話題を変えた。
「何?またどっか行く?」
「いや、そうじゃなくて…絵のコンクールが近くて、休みも部活やることになったんだよね…」
妙は胸の前に手を合わせた。
「だから遊べないの。ごめんね」
「なんだ、べつにいいよそれくらい。コンクール頑張ってね」
(日曜、か…)
鳴海は、コウスケの忠告を思い出した。
(でも、ちょっとあの木の上から様子見るだけならいいかな?)
鳴海はこのとき、自分の表情が楽しげに輝いていたことに、そして、妙がその表情に抱いた不審の念に気づくことはできなかった。
* * *
日曜、昼。鳴海は先週の脱出に使用した巨木の前に赴いた。
(見るだけなら、大丈夫…だよね?)
巨木の枝から垂れ下がるロープに手をかけ、頂上まで登った。頂上からは、前回は暗くてよく見えなかった特居の内部の外観がありありと俯瞰できた。
眼下には、巨木を中心とした広場が形成されており、そのまわりには荒廃した人家のトタン屋根がさながらかつての江戸の下町のごとく密集しているのが見える。先週荷車の中から見たときは気が付かなかったが、鳴海の邸宅とは比べるまでもなく一つ一つの家は小さく、階層が存在する家は皆無である。どの家も見るも無残に荒れていて、人の住む気配のある家は十軒、いや二十軒に一つといったところだろうか。
遠くを見ると、高らかな円柱状の塔が周りの人家を見下ろすようにそびえていた。特居内の道はこの塔を中心に放射状に伸びており、この塔が特居の中心地であることがうかがえる。
よく見ようと身を乗り出すと、トタン屋根街の入り組んだ道路の中で、老婆と大男の影を確認した。鳴海を迎えに来たサエとコウスケだろうか。
鳴海は慌ててその身を巨木の葉の中に隠そうとしたその時、コウスケがこちらを向いた。
(まずい!!)
動揺した鳴海は身体のバランスを崩し、身体が思い切り枝の下にぶら下がる形となる。だが手についた緊張の汗により、枝につながった腕もスルリと抜け落ちた。
完全に空に浮き落下を始めた鳴海は、生きた心地のしないまま枝のロープに手をかけた。掌の内をロープがズリズリズリと通過していく。鳴海は必死になって、ロープを握る力を強めた。
落下が完全に止まったとき、鳴海の足はもうすでに地に着いていた。
(死ぬかと思った…)
巨木の根元で息を整えていると、人が走ってくる音が聞こえた。隠れようとするも、腰が抜けたのか足が思うように動かない。
やってきたのは、やはり、コウスケであった。
「やっぱりお前か」
コウスケの見せた反応は怒りではなく、呆れであった。
「…さては馬鹿だな」
「馬鹿で悪かったね馬鹿で」
鳴海には何の言い訳もできなかった。
「なんのために来た」
コウスケの詰問に鳴海は窮した。そういえば、なんのためにこんなところに戻ってしまったのだろう。理性的な理由が思い浮かばない。
「なんとなく…?」
鳴海の答えとはいえない答えに、コウスケはしばらく沈黙した。
「馬鹿以外にお前を表す言葉があったらいいのにな…」
「なにもそこまで言わな…」
鳴海が言い返そうとすると、コウスケは鳴海の口をふさぎ、そのまま巨木の根元の裏側のくぼみへと鳴海を押し込んだ。
(そこでじっとしてろ)
コウスケは息を殺してそう告げた後、目の前から立ち去った。遠くからもうサエの声が聞こえる。
「急に走るんじゃないよ、老体を気遣いなさいな」
「悪い、何かが落ちた気がしてな」
「何か…?」
「どうやら猫か何かだったみたいだな、どっかいっちまった」
「ほう…」
サエの声からは、コウスケへの信用はうかがえない。
「まだ来てないならもとに戻るよ。早く来な」
「ずっと思ってたんだが…なんでここじゃなくてあんな離れたところで待ち伏せするんだ?あいつに手を出さないようここの住人全員に釘までさして」
サエはフンと鼻息を立てた。
「こんな近場で待ち構えてたら怪しくて仕方がないじゃないか。お前の目ならあれぐらいの距離でもみえるだろう?」
(待ち伏せ…待ち構える…)
鳴海は息を飲んだ。どうやらサエが自分を誘拐しようとしているのは間違いがないようだ。
突如、聞きなれないブザー音が鳴り響いた。2コールで音が切れ、
「どうしたんだい」
とサエの声が聞こえる。どうやらサエは無線機か何かを持っているようだ。
「なに、そんなのいつものことだろう…え?その侵入者がかい?…わかった、いますぐ行くからね」
サエは無線を切り、
「コウスケはこの辺であの娘が来るのを待ってな。くれぐれも逃すんじゃないよ?」
コウスケにすべてを託して、どこかへと去っていった。
「…出できていいぞ」
鳴海はぷはー、と息と吐き、おずおずと顔を出した。
「サエさん、何があったんだろう?」
「さあな、お前以上に金になりそうな情報でも入ったんだろう…命拾いしたな」
「命拾いって、んな大げさな」
鳴海が軽く流すと、コウスケは鋭い視線を浴びせた。一気に気圧される鳴海。
「ごめん…今すぐ帰るね」
「待て、お前その手で帰れるのか?」
「え?」
鳴海は自分の掌を見た。粗悪なロープを強く掴んで滑り落ちたせいだろうか、擦り傷で血だらけになっている。熱さと痛さがジンジンと伝わってくる。
「いや、でもこれくらいなら…」
そう言ってロープに手をかけると、
「痛っっ!!」
掌に激痛が走る。枝に捕まったときだろうか、どうやら手の中にが何本か木のとげ刺さっているようだ。この状態で自分の体重を乗せて十メートル以上登るのは辛い。
「とりあえず、あそこで手を洗え」
コウスケは巨木広場の隅の井戸を指さした。鳴海が手を洗い終えたのを確認すると、背中に抱えた荷物袋から鼠色の薄汚いローブを取り出し、それを投げてよこした。誘拐用にあらかじめ用意してあったのだろうか。
「包帯、買いに行くぞ」
「えっと…それでこれは…?」
「外の恰好でいたら目立つだろ。ここに置いていくわけにもいかないしな」
「ああ、なるほど…」
鳴海は慌ててローブを頭からかぶった。手がじりじり痛い。
「こんな感じ?」
鳴海が体を回転させて見せると、コウスケは黙ったまま近づき、ローブのフードを握りしめて頭に思い切り被せつけた。視界が暗くなる。
「ふわっ!?」
「よし、行こう」
コウスケはそれで満足したのか、スタスタと速足で歩き出していった。
(もうすこし丁重に扱えないものかな…)
そう不満を抱きつつ、コウスケの後を小走りで着いていく鳴海だった。
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