第三話

 外はすでに夕暮れに包まれていた。

 鳴海は、街灯のない夕方というものがこんなにも薄暗く、気味の悪いものだとは知らなかった。特居の町の様子を観察しようにも、暗すぎてよく見えない。


 黙々と先を急いでいたコウスケは急に立ち止まり、あたりに人がいないのを確認すると、鳴海の方を振り返った。

「忠告しておく。ここには、もう二度と来るな」

「えっ…なんですか急に」

 コウスケの唐突すぎる忠告に鳴海は狼狽した。

「ここはあんたみたいなやつが気軽に出入りしていいところじゃない。さっさと帰って二度と戻ってくるな」

「いやでも…サエさんと約束したし…」

「だからだ。あいつを信用するな」

 コウスケは声を荒げた。鳴海はますますわけがわからない。

「あいつって…自分のおばあちゃんでしょ??」

 コウスケは長いため息をついた。

「あれは俺の雇い主」

「雇い主?」

「俺は幼いころにあそこに売られた。親の顔なんざもう覚えてない」

「売られたって…」

 鳴海は困惑した。どう考えても、現代日本の話とは思えない。

「男ってのはここでもかなり珍しいからな。高く売れるんだ。俺は体が丈夫だから用心棒として売られた」

 コウスケの口調はいたって平然である。

「ちょっと待って、特居って男のための特別居住区じゃないの?」

「昔はそうだったらしいな」

「…今は違うの?」

「今ここの住人の大半は、外からやってきた女どもだ」

「外から?」

「あんたも見たろ、あの警備のザルさ。俺が生まれるよりずっと前からそうだ」

 鳴海はここに潜入したときのことを思いだした。あの分では移住も容易であろう。

「そうだけど、なんでわざわざこんなところに…」

 こんなところ、という表現のマズさに気づいたのか、鳴海は慌てて口をふさぐ。コウスケは特に気にする様子もない。

「葉っぱに薬に酒…ここにいれば、外で禁じられたものは全部簡単に手に入るし、誰も咎める者はいない。…表立って生きていけないような、訳アリな連中が越してくるのも無理はない」

「はえ~」

 慣れない言葉の連続で、鳴海はただ間抜けな声を上げるしかなかった。

「でもあのサエさんは悪い人には見えなかったけどなぁ」

「あいつがいい顔をするのは交渉相手か、都合のいい金ヅルに対してだけだ」

「交渉?金ヅル?」

「あいつは薬の売人でな。今日の物も、どこで誰から仕入れたものなのやら…」

「えっと、じゃあ…まさか…」

「あんたを薬漬けのお得意さんにするか、あるいは親御さんを脅迫して大金巻き上げるか、もしくはその両方か…ま、ろくなことは考えちゃいないだろうな」

 鳴海は大きな生唾を飲み込んだ。

「分かったか?ここはあんたみたいな世間知らずの高枕が来るところじゃない。取返しのつかないことになる前に、ここのことは全部忘れてお前らの世界に戻れ。いいな?」

「は、はい…」

 コウスケの迫力に気おされた鳴海は、ただ力なく頷くしかなかった。


* * *


 何を話せばよいかわからず、コウスケのあとをついて行く。気が付けばもう日はすっかり暮れてしまっていた。

 前を歩くコウスケが立ち止まる。壁にたどり着いたようだ。月の光を全身に浴びた壁は、昼間とはまた別種の異様さと威容さを放っていた。

「ここだ」

 コウスケの指さす先を見あげると、そこには巨木が立ちそびえており、その頂点付近の枝から太いロープがむき出しの地面まで垂れ下がっていた。その枝を伝っていけば悠々と壁を越えていけそうだ。おそらく壁の外側にも同様のロープがぶら下がっていているのだろう。

「ほんとにザルなんだね…」

 まさか壁沿いをパトロールする手間すらも惜しまれているとは…

「いいからはやく登って帰れ」

「う、うん、帰るんだけどさ」

 鳴海は先ほどからずっと抱いていた疑念をぶつけた。

「なんでさっきはあんなこと教えてくれたの?」

「あんなこと?」

「ここにはもう来るな、って」

 コウスケにとってこの質問は想定外だったようで、しばらく考えたのち、

「俺は出たくても出れないから、だろうな」


 その目は、哀しげで、悔しげで、鳴海はまた言葉を失ってしまうのであった。


* * *


 牧野邸にたどり着いたとき、もうすでに時計の針は10時を超えていた。

「探検ですか」

 家庭用ヒューマノイドの応対は淡々としていた。

「場所は…『特居の森』ですかね」

「ま、まあね」

(最新のヒューマノ恐ろしや…)

「里見様には、ピアノのレッスンとお夕餉を終え現在は入浴なさっていると既に報告済みです。それでよろしいですよね?」

「あ、うん。私が言う前にやってくれて助かるよ」

「もうお風呂の準備はできておりますので、どうぞお入りください。制服は至急クリーニングいたしますね」

(最新のヒューマノ万歳!)

 つい先ほどまで、ヒューマノイドはおろか電気もまともに点いてない僻地にいたことが夢のようである。

「今日はあの人・・・、いつ帰るの?」

「今日中にはお帰りになりません」

「そ」


 牧野里見―鳴海の母が家にいることは滅多にない。都知事になってからはいつの間に家に帰っているのかわからないほどである。思えばここ数日は顔すらまともに見ていない気がする。

(ま、いいんだけどね。遅く帰っても誰にも怒られないし)


 コウスケは、サエが金品目的で鳴海を攫うのではないかと言っていた。しかし、もしそんな状況になったら、里見は鳴海を助けるために金を払うだろうか?


 いや、一切払わない。断言できる。


 犯罪者の要求に耳を貸すことは犯罪に屈服するのと同義であり、日本国首都の最高責任者たる彼女がその前例を作ることは、娘の命を奪われる以上に避けねばならない。そう考えるのが牧野里見という政治家である。


 鳴海は大浴場の片隅で一人、身体に付着した泥や埃を洗い流した。

 鏡に映る自分の顔が、別れ際のコウスケの見せた顔と重なる。望みを、生きる夢を放棄した顔だ。

(あなたにとっては、ここは天国なんだろうけどね…)


 不意に流れた涙は、お湯で洗い流した。

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