院内一周

 こちらの意見のすり合わせが終わるのを待っていたかのようなタイミングで、廊下の奥、階段の辺りから髪の長い頭が顔を覗かせた。

ぼんやりと細部が分かるようになってきた距離で、予想がついていても気持ちの悪いものは変わらず気持ちが悪く、喉まで迫り上げる物にうっと息を詰まらせる。

昼間逃げ回ったおかげでこの病院の大体の内部構造は把握できている。


「こっちだ!来い!」


 化け物にわざと大声で話しかけて注意を引く。

また腕でぶっ刺されそうになるかも。とも思ったが、その可能性を常坂が削いだ。

早速俺に向かって伸ばされていた4本全ての腕に例のトラバサミを噛ませたからだ。

化物はあの歪んで固まっていた唇の隙間から盛大な悲鳴を上げた。

すかさず常坂は、見えないだろうけど念のため、受付の裏手に身を潜める。

その様子を目の端で確認して、俺はあえて大きく足音を鳴らしながら廊下を一直線に走る。

敵は期待通り俺を猛追してきている。とはいえ、腕はトラバサミが重いからか、また攻撃されるかもしれないと怯んだのか、さっきまでより格段に遅くなっていた。

遅いと言っても縄跳びの縄くらいの速さはあるから気を抜く余裕は一切ない。

 走りながら、不用心にドアが開いている病室がちらほらある事に気付いて心配になったが、部屋の入り口に魔法陣のようなものが描いてあり、化け物は入って行けないようになっているようだった。


「がんばれー!勇者様ー!」


 と、小児病棟を走り抜ける際に子ども達の楽し気な声が部屋から漏れ聞こえた。

化け物が迫っているにも関わらず子ども達に恐怖が微塵も見られないのは、常坂とこれまでの数えきれない患者達が今まで守ってきたからなんだよな。と酸素不足な頭で考える。

だからと言って、された仕打ちを思い返せば尊敬する事はできない。

怪物の速さが見た目トロそうな割りに結構な速度で、全力疾走していないと追いつかれそうなほどだ。

もし着いていても開閉に時間のかかるエレベーターは必然的に使えないので、常に階段なのがキツかった。それでも時たま身を潜めて息を整えてまた走り出す。

階段を上り切り、何度目かわからない角を曲がるとスタート地点が見えてきた。ラストスパートをかける。

 最初は細く見えていた何か黒い線が、近づくにつれ、黒いものでビッシリ廊下が埋め尽くされている状態なのだ、と気付く。

何かは言うまでもない、トラバサミだ。

端一列くらい空けておけばいいのに、5mにわたって全面トラバサミの絨毯。


「お前…っ、どこ通れってんだよバカ!」


 息苦しい中で出せる精一杯の大声で叫ぶと、


「大丈夫だ!これに掴まれ!」


 と何か長い物を投げてよこしてきた。あの馬鹿力で引っ張りあげるつもりか、と納得して手を伸ばした。もうトラバサミ絨毯の手前で焦っていたし、よく確認せずにそれを掴んだが、握った瞬間鋭い痛みが走った。

手元を見たら、トラバサミ。大量のトラバサミを輪繋ぎ飾りみたいにチェーン噛ませて繋いである。声にならない絶叫と共に振り上げられ、俺は宙を舞った。


「何やってんだコレぇ――っ!」


 と血まみれの左手を見せながら叫ぶが常坂は気にしていない。おそらく罠張ってから俺が走っている間に転がしてきたのであろうカートから止血剤や包帯を持ってくる。


「病院にそんな長くて太いロープとか無いからさ。いいじゃないか、利き手じゃないんだし。」

「利き手だよ!俺左利きなんだよ!」

「えっ!」


 今日初めて常坂が驚いた表情を見せた。そしてその後マズいな、と苦々しい表情を浮かべる。怪我させたことに対する罪悪感はないのか。と思ってから思い出した。


「確実に長期入院にしてみせますよ。」


 あの宣言はこれだったのか!叫ぼうと口を開いた時、錆びたドアを開ける音みたいな濁った悲鳴が聞こえてきた。見れば、化け物が見事にトラバサミにかかっている。

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