薬指の魔法
二の腕にぎゅっと包帯を何重にも巻かれ、簡易的な止血が完了する。高槻は残りの修復作業を終え、それが終わると、俺をキッと睨みつけた。そして無言で怪我をした方の俺の腕を細い肩に乗せ、その腕を手で掴んだ。何をするつもりだろう、と首を傾げていると彼女が徐に立ち上がるのでそれに釣られて俺も立った。
「悲鳴、上げないでね」
「あ、ああ」
「あとちょっと助走つけるから、協力して」
「分かった」
高槻は歩き始め、次第に速い歩調になっていく。それに合わせていると、彼女の歩幅は徐々に大きなものとなる。俺もそれに合わせているので、同じように歩幅が大きくなるのだが、少し不思議なことに地面を蹴りあげる際に、いつもよりも体が軽いように感じられた。なので心なしか体もいつもよりもよく浮く。いや実際によく浮いている。
高槻の唇が弧を描いているたのが横目から見える。俺は引きつった表情をしているのだろうか、自分では分からないが絶対にそうなっているはずだ。地面に足が付くたびに、体が高々と宙を舞う。何を血迷ったのか高槻は、二人が通り抜け出来る平らな地面が無くなると、ビルに突進し始めた。
「ちょっとま、」
「待たない!」
ビルの壁の、おうとつに足を掛けながら、それをビルからビルへと徐々に視界が高くなる。自分の血を失ったことでというよりは、高い場所に命綱も無しにこんなことをしていることでくらくらした。まるで壁ジャンプ、――二頭身の赤色帽子のイタリア人設定のキャラがよく行っているあれだ。
「いやちょっ、これ本当に怖い!」
「気散ると落ちるから静かにして!」
「落ちんのか!」
既にビルの最上部へと移動している。足元にはチカチカと点滅する車のライトや眩いばかりの建物の光が見えた。強い風に吹き飛ばされそうだ。俺は感覚のない手でがっちりと彼女の手を掴んだ。高槻は自由な手を望遠鏡の形にすると、よし分かった、と納得したような声を上げる。
「――最初に謝っとく!」
耳元では風がひゅうひゅうと音を立てている。それにかき消されないようにか高槻はすぐ近くに居ると言うのに大声でそう言った。
「私の能力値はすごく低い! めちゃくちゃ低い! ぶっちゃけ二人以上に能力を適応させたことが無い!」
「つまり?」
「――途中でスタミナ切れ起こして落ちて死んだらごめん!」
その一言に自身の顔の血の気がさっと引いていくのが分かった。眼下に広がるのは大都市東京の夜景だ。ビルの縁にかろうじて乗っていた足が外れ、体が落下する。えも言えぬ浮遊感に喉が引きつった。
「――ごめ、ん、ちゆちゃん、開けて……」
高槻は俺の腕を担いで、ビルを飛び移りながら移動した。道のりも半分の時点で息が上がっていたため、俺が歩くことを提案したがものの見事に却下された。こんな夜中に、明らかに未成年の俺たちが、それに怪我をした状態で歩いていたら最悪補導だ、のことだった。
若干落ちそうになりながらも辿りついたのは、立派な日本家屋の家だ。家の周りは頑丈で高い塀で目隠しされており、それを飛び越え中に入れば思わずほっと息を吐き出してしまうような日本庭園が現れた。母屋と離れに二分されている家屋のうち、高槻は迷うことなく離れの方へ行き、縁側の下で靴を脱いだ。そして息も絶え絶えの状態でその窓を叩く。すると何拍か置いてから、はあい、と女性の声が聞こえてきた。
「由宇ちゃん? どうかしたの、とても疲れているみたい。……あら、もしかしてお一人じゃない?」
「そうなの。ちょっと、怪我、してて」
「まあ、それは大変。少し待っていてちょうだい、窓を開けるわ」
カーテンがさっと開かれ、窓の鍵が開いた。俺も高槻に倣い、靴を脱ぐ。こっちよ、とその女性に言われるがままに、部屋の中へと高槻を支えながら入った。ぎしり、と床が軋む。外観は典型的な和風の家だが、中は特段普通の家と変わらない。畳の部屋で、真ん中にはカーベッドが敷いてあり、ベッドや勉強机が部屋の隅にある。
「由宇ちゃん、大丈夫? お茶くらい出したいのだけど、この時間に母屋の方まで行くと少し怪しまれちゃうから……」
「私は、ちょっと休めば、大丈夫……怪我してるのは、友達の方」
「そうなの? お友達はどちらに?」
高槻はふらふらと歩いて部屋の隅に行くと、壁に背をつけて徐々にずり落ちて畳の上に転がる。腕を目につけて仰向けになっている姿を見ると、かなり疲弊しているように思えた。
「俺です」
「まあ、男性でいらっしゃったのね。少しびっくりしちゃった。お座布団、どこにあったあかしら」
彼女は立膝をついて、手でとんとん、と床を軽く叩く。俺はその動作に慌てて、こっちです、と座布団を掲げて彼女に手渡した。
腰ほどまである長い黒髪にぱっちりとした黒い目。前髪と横髪は切り揃えられており、紺色の浴衣の袖から伸びる白い透き通った肌とのコントラストがある。なんだか日本人形のようだと思ってしまった。彼女はありがとう、とおっとりとした動作でにっこりと微笑んだ。
「どうぞ、お客様ですもの、お使いになってください」
「あ、大丈夫です。俺、床にそのまま座るの慣れてるし、それに処置してくださるあなたの方が疲れると思うので」
「あら、それじゃあお言葉に甘えて」
彼女に手渡そうとすると、彼女の手が座布団を探る。その腕に触れてここですよ、と誘導をした。先ほどから少し違和感があったがその正体がようやくわかった。彼女の行動を見る限り、この部屋で何も困らずに生活しているように見えたが実際は違う。彼女はこの部屋の形や大きさ、そしてどこにどんな物があるのかを大体記憶しているのだ。
「どうしましょう、私ご存じの通り目が見えていないんです。だから私の前に移動してもらえると助かるのだけど」
「はい、わかりました」
彼女は座布団を二つに折り曲げて正座をしながら下に敷いた。俺はその前に行き、とりあえず正座をする。すると彼女はそんなに畏まらなくてもよろしいですよ、と控えめに笑ったので、お言葉に甘えて足を崩した。
彼女が怪我をした場所を尋ねたので、それに腕と頬だと答える。まずは腕から処置をすることが決まり、彼女にその腕を差し出せば軽く触れられた。そして彼女は少し難しい顔をして、お水を持ってきますと外に出ていく。それに手伝おうと腰を上げれば、そこでお待ちくださいとやんわりとした口調で止められた。
その間部屋をじろじろと見るのも気が引けるので、後ろの高槻を見遣ればまだ体力が回復していないのだろう。先ほどよりはマシな顔色をしていたが、まだ青白い。水を出す音が聞こえて、何分かして戻ってきた彼女は洗面容器に半分ほどの水を持っていた。
「――結構ひどい傷でいらっしゃるのですね。痛くないですか?」
「大丈夫です、痛覚が無いので」
「あら、由宇ちゃんと一緒なのね」
彼女は傷の周辺を丁寧に洗い流した。中に異物感が無いかを尋ねられたので、無いと言えば中まで洗われることは無く、表面だけで済んだ。容器には既に赤い水が溜まっている。大方出血は止まっていたが、水に触れると少なからずまた傷口から血が流れ始める。それを彼女は片方の手でティッシュで止めながらもう片方の手をかざした。彼女の目が淡い緑色に光る。それと共に腕がじんわりと温かくなっていく感覚がした。
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