読了後

黒井羊太

あの本を読んで、あいつは変わった。

「おはよう! 今日も頑張ろうぜ!」


 同僚のAが、気持ち悪いぐらい爽やかに入室してきた。職場のフロアーにいた皆が一様に驚いた。


「どうした、悪い物でも食べたか?」


 俺の冷めた言葉にも全く動じず、爽やかなAは爽やかに答えた。


「いや~、昨日良い本に出会ってね! 一晩で読み終わってしまったんだよ!」


 意外な回答である。Aは本を読むような男ではない。せいぜい雑多な週刊誌程度だったはずだ。


「お前も読んでみろよ! きっと人生変わるぜ!?」


 そう言いながらAが差し出してきた一冊の本。俺はくぐれるほどに上がりまくったハードルに上手く答えられるか不安で、重たい気持ちでその本を受け取った。




 家に帰り、一通りの事を終え、寝床に入ってぱらぱらと本を読み始める。


 確かに面白い。ギャグがあちこちに散りばめられていながら感動的だし、考えさせられる。啓蒙的でありながら説教臭くなく、ロマン溢れる冒険活劇であり、そしてそこはかとないエロティシズムに満ちている。絶妙な描写力で描かれるファンタジーの世界に、妙にリアルな出来事の数々。哲学的とも言える深い内容がするすると頭の中に入ってきて、すんなりと理解できる。

 

 脳の普段使っている所から使っていない所まで余すことなく刺激され続けるような、そんな面白い小説であった。のだが……




「どうだった!?」


 翌日Aは顔を合わせるなり感想を求めてきた。


「どうって……面白かったよ」


「それだけ?」


「う~ん……」


 正直、Aのように人格が変わる程の物ではなかった、と俺は感じた。俺の返答に少ししょんぼりとするが、Aはすぐにパッと笑顔になり、


「まあ、その内きっと面白さが分かるさ!」


と言って俺の肩をバンバンと叩きながらフォローしてくれた。こんな奴だったっけ?


 俺を含め、その場にいた全員がぽかーんとしていた。




 Aは本当に変わった。良い奴になった。それもただの良い奴ではない。出来る、良い奴だ。


 Aに任せていたプロジェクトはトントン拍子に上手くいき、会社の利益を倍増させた。その間にもAは新しいプロジェクトをいくつも立ち上げ、その全てで成功していた。

 

 横並びだったはずの出世競争は、あっという間にはるか地平線、である。




「Aはあの本のお陰で出世した」


 会社中の噂であった。


 そんな事があるものか。悔しさ半分、疑い半分の俺は近所の本屋に行って例の本を買う。2,500円の痛い出費だが、まあ仕方あるまい。


 一度読んだ内容だが、もう一度読んでも面白い。新たな発見があり、一度目とは違った気持ちで読める。オチまで知っているからこそ、主人公以外のキャラクターにも感情移入が出来る。


 そして改めて感じるのが適度な文量。もう少し続きを読みたいと思う気持ちと、いやここで十分見事な完結だと思う気持ちの見事に中間の読了感。何とも心地良い。


 だが、結局俺の何かが変わる事はなかった。




「先輩、Aさんすごいっすね」


 後輩のBが、会社の掲示板前で佇む俺に声を掛けた。


 俺の目の前には『Aを専務取締役とする』との辞令が貼ってある。


 Aがあの本を読んでから、たった三ヶ月の出来事だ。


 俺はと言えば、何も変わらない。うだつの上がらない係長。


 ――あの本に何かそんな秘密が……?いや、そんな訳はない。俺はもう三巡も読んでいる。


「おい、B」


「はい、先輩」


「この本、読んでみるか?」


「え、何ですか? この分厚い本。僕、漫画しか読まないですよ?」


「大丈夫だ。Aもそうだった」




 Bは、俺を遙かに追い越して出世していった。たったの一ヶ月でだ。




「おかしいっ!」


 俺は頭を抱えた。


 今やテレビでも街角でも、あの本の事が流れている。


「感動しました!」「僕の人生が変わりました!」「全米が泣いた」


 その辺のヒット作と同じようなフレーズが飛び交う。違うのは、読んだ全員が一様に『出来る良い奴』になっている事だ。


 近所の奴らもイキイキし始め、月一回は皆でバーベキューを始めた。景気はみるみる回復し、不景気の重苦しい空気を吹っ飛ばしていった。


 更にその本は世界中の言語に翻訳され、世界中で感動の渦を起こし、全ての人が変わった結果、宗教、民族などのありとあらゆる対立は無くなり、世界は平和になった。




 何度読み返してみても、俺は変わらなかった。




 全ての人が『出来る良い奴』になって、世界中のあらゆる事は上手くいくようになった。全ての人が倫理的で、善人で、思いやりが出来、優しさに満ちている。俺はその世界が息苦しくなって、仕事を辞めた。家も、隣人達を見たくなくて、捨てた。


 一人、誰もいない場所で世捨て人のように生きている。持ってきた荷物はあの本だけだ。


 雨風だけをしのげる粗末な家を造った。昼には山に食料を探しに行き、夜は月明かりで本を読む。雨水や川の水を飲み水とし、石を枕に眠る。そんな生活をしている。何、良い奴になった皆のお陰で環境汚染もすっかり解決し、雨水は飲んでも問題ないレベルになっている。


 もう擦り切れる程、本を読んだ。何度読んでも面白い。が、自分の中の何かが変わる事は、とうとう感じる事はなかった。




 どれほど月日が経ったか、元後輩のBが訪ねてきた。探し回ったんですよ、とか文句を垂れながらも、自然と俺の家に入り込んでいた。


 俗世と離れて生きていたので分からなかったが、世界は相変わらず平和らしい。新技術も次々開発され、より健康に、より長寿に、より便利になっているそうだ。想像もつかん。


 Bの近況報告という名の一方的なスピーチが途切れた時、俺はBに尋ねた。


「なあ、世界中がそうして変わったというのに、何故俺だけはこの本で変わらなかったんだろうな」


 Bは不思議そうな顔で答えてくれた。


「そりゃぁ、先輩が“ちゃんと”読まなかったからじゃないですか? いくらその本が良い本だって、それを読んで感動したって、結果“自分が変わらなければ”、そんなの読んでないのと一緒ですよ?」

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読了後 黒井羊太 @kurohitsuji

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