山物語
とある村に、山菜採りを生業にする男がいました。
男の家はずっと昔から山菜採りをしている家で、父が働くことが出来なくなる歳になると、男も当然のように山菜採りを始めました。
村から山へと歩き、山から村へ歩く。そんな毎日の繰り返しです。
平坦で、退屈な毎日ではあったけれど、男は幸福でした。
村には家族がいて、友人がいて、恋人もいたからです。
ちいさな村でしたが、そこにはすべてがあり、男は満たされて暮らしていました。
ですが、そんなささやかな幸福に、ある日、男はいられなくなってしまいました。
それは夏の日のことです。
山菜採りの帰り道で、男は草木に覆われた山のなかで、ゆらゆらと燃える鬼火を見たのです。毎日飽きることなく村から山へと行き来してきましたが、こんな不思議なものを目にするのは生まれてはじめてのことでした。
だから不意に表れたその鬼火に、男は恐怖を感じました。
男は踵を返し、一目散に山のなかへと逃げ出します。けれど、鬼火は男を見逃しません。一度ゆらりと揺らめいたかと思うと、一直線に男を追いかけてきたのです。
鬼火に焼かれると思うと、男はより一層怖くなりました。早く振り切ってしまおうと、山のなかをひたすらに駆け抜けました。すると男の必死さに根負けしたのか、やがて鬼火は姿を消してしまいました。男は胸を抑えながら、乱れた息を調え、心の底から安堵しました。
けれど、高くそびえ立つ周囲の木々を見て、男は気づきました。
いつの間にか、山道を外れ、見知らぬ山のなかまで来てしまっていたのです。
風が吹き、木々がざわめきました。羽を休めていた鳥たちが、一斉に飛び立つ音が聞こえました。陽は沈みかけ、山の暗さをその闇を深めつつありました。
「このままではまずい。熊でも出たら、俺は助からないだろう」
男は焦り、村へ帰ろうと早足で歩き続けました。
ですがどれだけ歩いても、自分が知る道へは辿り着けませんでした。それどころか、森はよる鬱蒼と空を覆い、男から月も星も隠してしまいました。もう目の前の景色すらまともに見ることは叶いません。
息はあがり、体は疲れでいっぱいです。ですが恐怖が男の足を動かし続けました。
前が見えなくとも、進んでいればいずれは何処かに辿り着く。そう妄信しなければ、この闇に男は堪えられなかったでしょう。
その愚かな行いは、暗闇の罠にかかることで止められました。
前も見えずに歩いた男は、なにもない虚空へと足を踏み出し、険しい坂をごろごろと転がることになったのです。そして岩らしきものに強かに体を打ち付けると、男は意識を失ってしまいました。
目が覚めたとき、男の目には薄ぼんやりとした光が見えました。
それはあの鬼火の灯火でした。まるで灯籠のように、幾つもの鬼火が山の斜面を挟むようにして、長い長い、鬼火の道を作り上げていたのです。
初めて見たときは恐怖しか感じなかったのに、男はもう鬼火に対して、恐怖を感じなくなっていました。朦朧とした意識のまま立ち上がり、男は鬼火が作る道を歩いていきました。
鬼火の道は、火に囲まれてるというのに何故だか寒いものでした。道を進めば進むほど、男の体も寒くなっていくようでした。まるで自分が死者にでもなっていくような感覚でしたが、不思議なことに男は恐怖を感じませんでした。
歩き続けると、やがて道の先にちいさな一軒家が見えてきました。
濃い茶色の板で作られた家で、男の村にある建物よりも少しだけ立派そうに見えました。
疲れでいっぱいの男にとって、その家はまさに救いの神さまが現れたかのような心地でした。早くからだを休めたくて、男は家に泊めてもらおうと決心しました。
家の入り口に立つと、男は家の扉をこんこんと叩きました。
十秒ほど経つと、戸が開かれ、家のなかから美しい女が出てきました。
その女があまりに美しくて、男は一瞬息を止めてしまいました。
それくらい女は綺麗だったのです。
顔の輪郭はくっきりして、二重の目蓋の瞳は大きく、その左目の下にはちいさな泣きぼくろがありました。唇は血のように赤く、長い濡れ羽色の黒髪は、手で触れたら上質の絹のように気持ちが良いだろうと思えました。
女の美しさに男が呆然としていると、女は訝しむように形の良い唇を動かしました。
「もしかして、道に迷われたのですか?」
女の問いに男は正気を取り戻しました。けれどまだ驚きの余韻が残り、上手く喋ることが出来なくて、山に迷ってしまったことは伝えられても、あの恐ろしい、けれど自分を導いてくれた鬼火のことについては上手く話すことが出来ませんでした。
話が終わると、女は快く頷きました。
「では、今夜はこの家にお泊まりください。でも不思議ですね。鬼火なんて。わたしはまだ見たことがありませんから、一度お目にかかりたいです」
女の言葉に、男は恥ずかしくなりました。女の笑う声で、男はあの鬼火は自分が見た幻なのではないかと思ってしまいました。振り返ると、あの鬼火の道はもうありません。もしかしたらほんとうに幻だったのかもしれないと男は思い始めました。
女の家に入ると、今までの疲れが出たのか、男は急に眠くなってきました。
目蓋が落ちないようなんとか堪えていると、台所で料理をしていた女が横になるよう声をかけてくれました。料理が出来たら起こしてくれるそうで、男は女の言葉に甘えて、一度眠ることに決めました。
畳みに横になり、瞳を閉じると、女が包丁を研いでいる音が聞こえました。規則正しく砥石と包丁が刷り合わされる音は、男の眠気をさらに強くしました。
それでもすぐに眠ることは出来ず、男は僅かに瞳を開き、包丁を研ぐ女の姿を見ました。
「今日はありがとうございます。本当に助かりました」
「いいえ、困ったときはお互いさまです。どうぞ、ゆっくりしていてくださいね。もう少ししたら美味しい料理が出来るので」
規則正しい包丁の音が少しだけ乱れました。どうやら女は声も出さずに笑っているようでした。なにがそんなに嬉しいのかわかりませんでしたが、男はなんとなく、女はこれから食べる食事が楽しくて仕方がないのだと思いました。
もしかしたら、今日はなにか特別な日で、ごちそうを用意していたのかもしれない。だとすれば、突然お邪魔して自分は悪いことをした。
そう思った男は、気怠いからだを起こし、自分が集めた山菜を女に渡しました。
「もし良ければこの山菜をお使いください。今朝山で採ってきたものです」
「あら良いんですか。嬉しい」
山菜を渡すと女は増々嬉しそうにしました。
「けれど、ほんとうに不思議ですね、鬼火なんて。恐ろしいでしょう。そんなものに追いかけられるなんて」
「ええ。ですが、今はさほど恐ろしくはありません。私はあの鬼火に助けられました。あなたのもとまで導いてもらったのです。あの鬼火の導きがなければ、もしかしたら今頃は熊にでも襲われていたかもしれません。きっとあの鬼火は山の神の使いか何かだったのかもしれない。逃げずにきちんと向き合っていれば、山で迷うなどということにはなっていなかったかもしれませんね」
そう言うと、何故だか女は笑みを消し、男が渡した山菜をじっと見つめました。
男は気の障ることでも言ったのかと思い、なにか気の利いたことを言おうとしましたが、結局なにも思い浮かびませんでした。
夕餉が出来ると、男は女とふたりで囲炉裏を囲んで食事をしました。
囲炉裏のなかにある食事は、想像していたほど豪華なものではありませんでした。
鍋のなかに米が入れられ、そのなかに川魚と男が渡した山菜が入れられただけのものでした。けれど空腹のためか、鍋はとても美味しく感じられ、男は次々と鍋の中身をお椀へと寄せていきました。
食事をしている間、男と女の間に会話はなく、ふたりは黙々と食事をするだけでした。
男は女のことをなにも知らないし、女も男のことを知らないから、それは当然とも言えました。けれど、男が食事をしている間、女は何処かそれを満足そうに見ているのが、男には印象的でした。
翌日になると、男は女に泊めてもらった礼を言い、家を出て行きました。村へと戻るためです。女は途中でお腹が空くだろうからと、握り飯を作って、男に持たせてくれました。あの女には、ほんとうに世話になったな、と感謝しながら、男は山道を歩き続けることにしました。一刻、二刻、三刻。男はひたすらに山のなかを歩き続けました。
ですが、いつまで歩いても、自分が見知った山道へは辿り着けません。
これはおかしい、と男は思いました。
この山はこんなに大きい筈はないのです。いつも山に山菜採りに出かけている男にはそれがわかりました。男の予想では、三刻も歩いていれば、とうに山を出るか、自分の知る山道に出てもおかしくなかったのです。
戸惑いながらも山を歩き続けるうちに、いつの間にか陽が傾いてきました。
男はまた遭難してはマズいと思い、仕方なく、女のいる家へと戻ることにしました。
家に戻ると、女は男を暖かく迎えてくれました。男がお礼に山で採った山菜を渡すと、女はそれを嬉しそうに受け取り、また昨日みたいに料理を振る舞ってくれました。
次の日になると、男はまた自分の村を目指して、女の家を出ました。
けれど、村には辿り着けませんでした。
また次の日になると、男はまたしても自分の村を目指しました。
次の日も、次の日も、次の日も。
だけど、いつまで経っても、男が村へ辿り着くことはありませんでした。
男は村の仲間たちが自分を探しているのか、死んだと思われたんじゃないかと心配になりました。そんな時、不安に想う男のことを支えてくれたのが、あの女でした。
同じ畳みの上で、何日も一緒に過ごすうちに、ふたりはいつからか、男女の関係へと至っていました。ちいさな家でたったふたりで過ごすのだから、ある意味、当たり前と言えたかもしれません。
毎日山菜採りをしながらも、村へと行く道を探す男を、彼女は支えてくれたのです。
そうして女と過ごすうちに、男は自分の村のことが少しずつどうでも良くなってきました。村のみんなに会えないことは寂しい。みんなは自分を心配するかもしれない。けれど、あの村であれば、自分がいなくてもなんら問題なくやっていけるだろうと思ったのです。
なにより、この山奥での暮らしは幸福なものでした。
緑にあふれ、苦労もなく山菜を取ることができ、少し歩けば魚の豊富な川へと辿り着く。
家に帰れば、美しい女が台所で夕餉の準備をしてくれている。
一緒にご飯を食べて、すべて食べれば同じ畳みの上に横になって眠りをとる。
昼間は鳥たちの囁く声が耳をくすぐり、夜は虫たちの鳴き声が眠りに誘ってくれる。
なにもないけれど、なにもかもがあり、とても居心地の良い場所だったのです。
いつの間にか、男はいつまでもこの場所にいたくなってしまったのです。
それを咎めるものはいません。女は男を受け入れ、いつまでも家に泊めてくれました。
そうして数年の月日が経ち、男と女の間には、こどもが出来ていました。
男と女、性別の違うふたりの人間が、毎日同じ床で眠っていれば、それは当然のことでした。
こどもはふたりいました。
ひとりは男の子。
男よりも、女の方に似て大人しい性格でした。
もうひとりは女の子。
女よりも、男の方に似て活発で元気な性格でした。
ふたりのこどもが生まれたことで、男の生活はより豊かで、幸せなものになりました。
こどもが産まれる前は、満たされてはいたけれど、どこか退屈なところもあり、たまに山奥での生活に飽きてしまうことがあったからです。
けれど、こどもたちのお陰で、もうそんな気持ちになることはありませんでした。
でもある時、男はふと思ったのです。
それは河原で、女がこどもたちを抱き寄せ、おとぎ話を聞かせていたときのことです。
こどもたちにお話を聞かせている女の横顔はとても綺麗でした。
その横顔を見て、男は思ったのです。「俺を幸せにしてくれたこの妻は、いったいどうして、こんな山奥でひとりでいたのだろう」と。
ずっと一緒にいたけれど、これまで男は女が何者なのか、そのことに疑問を覚えたことはありませんでした。思えば不思議な話です。これほど美しければ、山奥でひとり、引き蘢る必要などないというのに、なぜ自ら不自由な生活を選んだのでしょう。
一度疑問が浮かぶと、男の好奇心は少しずつ強いものになりました。
ふつふつとあぶくのように沸き上がる謎は、やがて夜になる頃には、男に行動を起こさせていました。女が台所で料理をしている時に、男は問いかけたのです。
「なぁ、なんでお前はこんな山奥にずっとひとりでいたんだ?」
床の間からはこどもたちの賑やかな笑い声が聞こえました。
その笑い声が響くなか、女は魚を包丁で切りながら、くすりと笑いました。
「きっと、あなたと会うためでしょう。それ以外の答えなど、ありはしませんよ」
女の答えは嬉しいものでしたが、男の求める答えではありませんでした。
また同じことを聞いても、女ははぐらかすだろう。
そう考え、男はそれ以上問いかけることを止めました。
けれど、疑問は頭のなかに残り続けました。食事をし、こどもたちを風呂に入れ、床に横になったあとも、頭のなかではぐるぐると同じ問いを考え続けていました。
俺の妻は、いったい何者なんだろうと。
そうして布団のなかで考え続けながら、男はふとあることを思い出しました。
女はひとつ、明確に男に対して、秘密にしていることがありました。
月に一度、女は山の神に祈りに、家の近くにある洞窟へと向かうのです。
男も何度か女と一緒に行こうと思ったことがありますが、女はどうしてもひとりで祈りたいといい、男が洞窟へ行くことを望むたびに強く断りました。
もしかしたら、あの洞窟へ行けば、女の秘密がわかるかもしれない。
男は次の祈りの日に、女のあとをつけてみようと思いました。
女は必ず怒るだろう。けれどこどもがいる今なら、きっと許してくれる筈だ。
そう考えて、男は目蓋を下ろして、その日は眠りにつきました。
一日、また一日と時は過ぎ、やがて女が洞窟へと祈りに行く日がやってきました。
その日の早朝、女は朝食を食べると、こどもたちを男に任せ、早速洞窟へと向かいました。男は女の頼みを受け入れましたが、当然、その裏では女を付けることを考えていました。女が家を出てからしばらくすると、男は「少し用事があるから大人しくしているんだよ」とこどもたちに言い聞かせ、女のあとを追うことにしました。
鬱蒼としげる木々の群れ。緑色に包まれた世界のなか、男は小鳥たちの囁く声を聞きながら山を歩きました。踏んだ小枝が割れ、ぱちんと音が響くと、枝に止まっていた小鳥たちが羽ばたき、今度は羽が空気を叩く音でいっぱいになりました。
そんな色々な音を聞きながら、男が山のなかを進んでいくと、やがて女のいる洞窟の前へと辿り着きました。洞窟の入り口は小さく、ひと一人が通れるくらいの大きさしかありません。ここに入ってしまえば、もう女にバレずに帰ることは不可能でしょう。
男は乱れていた息を整え、自分の心臓が跳ね打つのを感じながら、洞窟へと入りました。
もう、あと戻りは出来ません。
洞窟のなかは真っ暗でした。暗くてなにも見ることは出来ません。気をつけていないとすぐに体をぶつけてしまいます。そのため男は一歩進むごとに手探りで目の前に何があるかを確認しなければなりなませんでした。狭い洞窟を歩き続けていると、やがて光が見えてきます。蝋燭の火です。ずっと暗い洞窟のなかを進んで行かなくてはならないと思っていたので、男はこの光に少しだけ安心しました。
光を目指して進むと、やがて広い空間に出ました。両端の壁には蝋燭が取り付けられ、それがずっと先の場所まで並べられていて、うっすらとした光がでこぼこした洞窟の壁を照らしていました。
蝋燭の火に導かれ、男は洞窟の奥へ奥へと進みました。
歩いている間、男は女と出会ったときのことを思い出しました。あの時は蝋燭の代わりに鬼火が導いてくれていたが、あの鬼火は結局なんだったんだろう。
そんなことを男は歩きながら考えていました。
やがて洞窟の奥に、小さな祭壇があるのが見えてきました。
祭壇の前では、女が地面に膝をつき、黙々と祈りを捧げていました。
男は女から少し離れたところで立ち止まり、彼女に話しかけようと思いました。けれど、今は祈りの最中だから止めようと思いました。女との約束を破ったのに、お祈りまで邪魔しては悪いと思ったからです。
けれど、女の方は違うようでした。
男の足音に気づいたのか、女は恐る恐るというように男の方へと顔を向けました。
その顔を見た瞬間、男は息が止まりそうになりました。
女の顔は、真っ赤に染まり憤怒に満ちた鬼のものに変わっていたからです。
男の姿を捉えた瞬間、女は立ち上がり男へと走りました。
妻のあまりの姿の変わりように怯え、男は洞窟の外へと逃げようとしました。
けれど駄目でした。
鬼の顔をした女はあまりに早く、男との距離を一瞬にして詰めると、男の肩を掴んで硬い地面に引き倒してしまいました。
男はすぐに起き上がろうとしましたが、女は両腕で男の肩を抑え、身動きを封じてしまいました。そのまま馬乗りとなり、女は怒りの形相のまま叫びました。
「なぜここに来た。あれほど来るなと言ったろう。だがこうなってしまっては仕方ない。約束を破ったお前には、ここで死んでもらう」
女は肩腕を上げ、その鋭い爪で男を貫こうとしました。
ですが、その直前、ひとつの声が女の動きを止めました。
「おかあさん、なにしてるの?」
それは男と女の娘の声でした。祭壇の入り口近くに、いつのかにか男たちの娘がいたのです。きっと、寂しくなって男を追いかけてきたのでしょう。
「けんか? けんかをしてるの?」
娘の声が泣き出しそうなものに変わりました。
男と女が喧嘩をしていると、娘はいつも泣き出してしまいます。そうすると娘をあやすために、男と女の喧嘩は自然に治まってしまいます。
それは今回も同じでした。
娘の鳴き声を聞くと、女は男に馬乗りになったまま俯いてしまいました。
男から女の顔は見えません。ですが次に女が顔をあげたとき、女の面相は鬼のものではなく、もとの美しい女のものに変わっていました。女は立ち上がると暖かい微笑みを浮かべたまま娘を抱き上げ、あやしてあげました。しばらくすると、娘は泣き止み、疲れてしまったのか女の腕のなかで眠ってしまいました。
娘を見る女の顔は慈しみに溢れており、男はやはり先程の女の姿は目の錯覚だったのではと思ってしまうほどでした。けれど、それはただの願望で、やっぱり女は鬼でした。
女は娘が完全に眠ると、固い顔つきとなり、男のもとへと歩みました。そして腕のなかの娘を男に渡してからこう言いました。
「今日中にこどもたちとともに山を去れ。娘に免じて命だけは助けてやろう。家から山を去るときは、決して後ろを振り返るなよ」
それだけ言うと、女は二歩ほど下がって洞窟の闇に溶けるように、男の前から姿を消してしまいました。
男は戸惑いました。女の言葉に従うか、それとも女の言葉に逆らうか。
男は女が恐ろしかったけれど、同時に、まだ愛する気持ちがありました。
けれど、このままではいられないという気持ちの方が勝りました。
男は娘とともに洞窟を出ると、そのまま家に帰り、息子も連れて山を出ることにしました。こどもたちは
「お母さんはどうしたの?」となんども聞いてきます。問いがあるたびに、男は適当な理由で、こどもたちの質問をはぐらかしました。
家を出たのは昼でした。しかし、山を歩き続けると、やがて陽は降り、森のなかは暗さを深めていきました。こどもたちは怯え、男のからだに引っ付きます。それで増々歩く速度が遅くなり、増々闇は濃くなりました。
このままでは遭難してしまう。男が悩んでいると、ふと、山の奥にひとつの灯りが見えました。その灯りは、いつか男を女のもとに導いてくれた鬼火です。
鬼火はゆらりと揺れるとふたつに分かれ、その鬼火がさらに分かれることを繰り返し、少しずつ数を増やしていきました。やがて幾つもの鬼火が灯籠のように山のなかに続いていき、あの日、女と出会ったときのよう
に男に道しるべを示しました。
男はこどもたちとともに、鬼火の灯籠の間を歩いていきました。
ゆらゆらと揺れる鬼火の道を見据えながら、男は思いました。
きっとこの鬼火は妻が作ったものなのだろうと。
女がなにを考え男を家に招いたのかは、いまとなってはわかりません。
けれど、いまあの女が男とこどもたちを助けようとしていることだけは確かでした。
歩いているうちに、ふと、男は後ろを振り返りたくなりました。
あの暖かかった家の名残を少しでも感じたかったからかもしれません。
しかし、結局男は振り向きませんでした。
妻のことばに従おうと思ったからです。
やがて鬼火の道しるべを越えると、そこには懐かしい、男の故郷の村がありました。
父や母、兄弟たちのいる家に帰ると、家族は皆、死んだ者でも見るように男を見ました。
実際、もう何年も戻っていないから、村の住人たちにとって男は死んだも同然だったのでしょう。
喜ぶ家族の声を聞きながら、男はようやく、後ろを振り返りました。
振り返った先には、男が女とともに数年を過ごした山がありました。
きっと、もう妻と出会うことはないのだろう。
そんな寂しさを抱えて、男はずっと山を見続けるのでした。
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