(2)


 軍警が少なそうな地域では、なるべく夜に寝るようにしている。

多そうなら、逆に昼に寝るようにしている。


 理由は単純で、夜中に女が一人で、ベンチで寝ていたとしたら、警邏に携わる公務官が声をかけないはずがない。

しかし昼間にベンチで一人で寝ていようが、多少物珍しくは思えど、怪しんで声をかけてくることは少ないと思う。


 このあたりはそれほど軍警も多くないらしい。

きっともう少し行けば、樹楽街辺りで増えてくるかもしれない。


 出来ることならば夜に寝る方が身体も楽なので、樹楽街に近づく前に、ここらで野宿することにした。

キャリーバッグの中からシートを取り出し、橋の下で敷いた。

目の前で河川が流れているので、少し寒いかもしれないけれど、人目につかないところが他に見当たらなかった。


 下弦の月だけが、私を照らしている。

すっかり夜は更けていて、川のせせらぎが、やたらと大きく聞こえる。

月明かりに照らされた流れが、薄い膜でも張っているみたいに、てらてらと揺らいでいる。


 シートの上に寝転がって、髪飾りを外して、月にそれを翳してみた。

輝くことはないけれど、それはおぼろげな月光にそっと溶け込んでゆくような気がして、なんとなく、見入ってしまう。


 シートの下の、雑草と小石の感触を背中で受けていると、やがて眠くなってきた。

これといった理由は見当たらないけれど、なぜか今日は、気持ちよく眠れそうな気がする。

そんな風に考えながら、瞼を下ろした時――


「なにやってんだお前」


 咄嗟に麻袋を掴み、飛び起きる。

男が、すぐそばでしゃがみ込んでいた。

私はきつく睨んでみたけれど、この夜闇の中、男の表情はちっとも見えない。

きっと、男から見てもそうなのだろう。

その目がどのように私を捉えているのか分からないけれど、怪訝な面持ちで目を凝らして私を見ているような気がした。


「見て分かるでしょ。野宿よ」


 面倒臭そうな雰囲気を醸し出していたので、変に取り繕うのはやめた。

もしも暴行に及ぶようなことがあれば、叩き斬ってやる。

腹を決めて、麻袋越しに刀の柄を握った。


「聞いただけじゃねえか。つんつんしやがって、可愛くねえ女」


 どこかで聞いたことのあるような物言いで、私はすぐに、それを思い出した。

旅の途中、しばしば軟派な男に声をかけられることがあったけれど、ろくに相手にしなかったとき、彼らはきまってこんな風に私を詰った。

思い出して、つい笑ってしまった。


「何が可笑しいんだよ」


 男がむっとしているのが、声で分かった。

どうやら軍警でも自警団の人間でもないらしい。

自分でもどうかしてると思うけれど、下弦の月が見下ろす中、川のせせらぎを聞きながら、誰かと話したい気分だった。


「なんでもないわ」


 自分から人を呼び止めたのは、多分これが初めてだ。


「私、浮浪者なの。コーヒーを一杯恵んでくれないかしら」


 ▼


 橋の下から少し離れて、街灯が照らす土手の草っ原に座り込んで、缶コーヒーを啜る。

男は隣で、私と同じように座り込んで、缶ビールのプルタブを開けた。


「じじくさいわ」


 スーツ姿で缶ビール片手に草っ原に座り込む姿は、多分私よりもくたびれている。


「酒でも飲まねえとやってられるかよ。しょうもない仕事に手を焼かされるしよ」


 大人が酒を飲むところは何度も見たことがあるけれど、たがが外れた鹿おどしみたいに揺れる喉仏を横から見ていると、この人はきっと世界一ビールを美味しそうに飲む人なんだろうなと思った。

缶から口を離し、唇を尖らせて息を吐いて、川の向こう側をじっと見つめている。


「なにやってるの」


「酒を飲んでる」


「仕事よ」


「探偵」


 あまりに端的に答えるものだから、どういう言葉を以って会話を続ければいいのか分からなかった。

けれど、探偵は独り言みたいに喋り始めた。


「シャーロットっていう家出娘を捜してるんだ」


 私は思わず噴き出してしまった。


「少し太ってて、目は金色。白髪で手足は短い。おてんば娘だ」


「ねぇ、それって」


「猫だ」


 情報を繋ぎ合わせて思い浮かべた猫は、二重あごで、運動不足がたたってでっぷりと肥え太ったいやみな猫だった。

シャーロットは喉をごろごろと鳴らして、のそのそと私の頭の中を歩いている。


「厚化粧のマダムに飼い殺されて、ようやっと外に出たんだ。今頃自由を噛み締めながら呑気に寝てるだろうよ」


 きっとこの探偵からしてみれば、どうということはない皮肉だったのだろう。

けれど、家を飛び出したシャーロットと自分を重ねずにはいられなかった。


 ねえ、シャーロット。

 あなたは今幸せですか?


 そんな風に問いかけてみても、私の頭の中の猫はそっぽむいてしまうだけで、私には、彼女の気持ちなど分かるはずもなかった。


「辛気臭い顔してんじゃねえよ。酒が不味くなる」


 そう言いながらも、探偵は缶ビールをほぼ真上に傾けて一気に呷った。

空になったアルミ缶を握り潰し、そして踏みつける。

ぺしゃんこになったそれを握り、おもむろに、川へ向かって歩き始めた。

彼のそのなんでもない行動を、私はじっと見つめていた。


 平たい缶を、彼は水切りの要領で川に投げた。

缶は向こう岸まで届かず、半ばで沈んでしまった。


「ポイ捨て」


「リサイクルだ。空き缶は水切り用の石に生まれ変わって宿命を全うしたらしいぜ」


 私はまた笑ってしまった。

探偵は振り返って、よく分からない笑みを浮かべた。

意地が悪そうで、憎たらしい笑み。けれどなぜか憎めない・・・・


 やがて、おぼつかない足取りで、探偵は歩く。

私はずっとその後ろ姿を見つめていた。

缶コーヒーの礼を、言わなかった。

どうでもいいと一蹴されてしまうような気がしたから。


「その髪飾り」


 少しだけ小さくなった探偵は、顔だけをこちらに向けて。


「全然似合ってねえぞ」


「余計なお世話」


 猫を、捜してみよう。


 そう、思った。

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