5.そんな七瀬のむかし話〜前編〜
(1)
雨が降っている。
着の身着のままで家を飛び出してきたものだから、少ない衣類が濡れてしまうのが嫌だった。
だから喫茶店で、一杯のコーヒーを三時間かけて飲んでいる。
女給が、怪訝な面持ちで私を見ているのが分かった。
真新しい制服を着た彼女にはきっと、私がごみのように見えるのだろう。
身体と服は最低限洗っている。
少ない洋服は、赤いTシャツとダメージデニム。ショートパンツと、今の時期にはそぐわない、厚手のパーカー。そして今着ている白のワンピース。
一ノ瀬の家を出た時、私は、これだけあればどこへだって行けると信じていた。
2
雑貨店で、歯ブラシと傘を買った。
サンダルの紐が切れかかっていたので、新しいのを買いたかったけれど、使えるお金はそれほど多くないので、なくなく諦めた。
気付けば、二日間何も食べていなかった。
雨宿りに喫茶店を利用した日、コーヒー一杯で三時間粘っていたら追い出されそうになって、しぶしぶ注文した割高なサンドイッチ。
それ以降、公園の水道水しか口に入れてない。
お腹は空いているけれど、もう慣れっこだ。
はじめのうちは空腹のあまり、眠れない夜が続いた。
寝る体勢を工夫しているうちに、気にならなくなっていた。
どこでだって眠れる。
むしろふかふかのベッドの方が、身体が浮いているような心地で落ち着かない。
無人駅のベンチでも、シートを敷けば、高架下でも公園の遊具の中でも快適だ。
日野国を出て、手持ちのお金で行けるところまで、電車に乗った。
海峡を越え、
気付けば
とにかく先へ進むことを目指していたわけではないので、一つの街に三日以上滞在したこともある。
波坂は治安が悪かったので、駆けるように過ぎ去った。
お金は、軍警が少なそうな場所で、剣舞(剣道の型から派生し、華やかな舞を盛り込んだ古来の芸)を舞って稼いだ。
どのみち十五で家を飛び出したので、軍警からは隠れなければならないのだけれど、刀剣の免許を取っていたことは大いに役立った。
一ノ瀬の家にいて、唯一為になったことだと思う。
華やかな着物でもあれば、もう少し稼げたかもしれないけれど、無いものをねだる気力も無かった。
空はいやみなくらい晴れ渡っていた。
けれどこれから梅雨入りするので、きっと傘は必要だろう。
雑貨店を出て、刀を収めた麻袋の中に、傘を突っ込む。
それをキャリーバッグの紐にくくりつけて、なるべく音がしないように、歩いた。
しばらく歩いていると花屋が目に入った。
表に色とりどりの花を飾っていて、花の名前には詳しくないけれど、綺麗だと思った。
「お嬢ちゃん、すごい荷物だね」
ちょうど顔を出した店主らしき人が、柔らかい声色で話しかけてきた。
年齢は三十代半ばほどだと思う。
気さくそうな男だ。
「中身はそんなに入ってないの。日帰りの旅行だから」
「へえ、どこまで?」
「樹楽街まで」少し悩んで。「賭場に行ってみようかなと思って」
女一人で大荷物を引いていると、こんな風に声をかけられることがしばしばあった。
はじめのうちは正直に日野国から来たと話していたけれど、皆揃って怪訝な顔をするので、それに気付いてからは取り敢えず目先の名所を挙げることにしている。
さらに言うと、私はこのあてのない旅では、十八歳の女だった。
「女一人で賭場かい。気をつけなよお嬢ちゃん。そんな綺麗な顔してると、たちの悪い博徒に襲われちまうや」
「大丈夫。独り身の女って意外と強いのよ。知ってた?」
「覚えとくよ。嬢ちゃん確かに気が強そうだもんなあ」
歳のわりに、気が強そうな顔だとよく言われる。
学生の頃は、多少可愛らしく見られたいという願望もあったのでコンプレックスだったけれど、歳を誤魔化して旅をする今となっては、むしろ都合が良かった。
「綺麗ね」
私が言うと、店主は照れ臭そうに鼻を擦った。
会話が半端に途切れて、去りづらくなる前に、私はその場を離れようとしたのだけれど、呼び止められた。
店主は私を制して、店の奥まで引っ込んでしまった。
千切れかけたサンダルの紐を弄りながら待っていると、すぐに、彼は戻ってきた。
「やるよ」
そう言って、差し出された桃色の造花の髪飾りを受け取った。
思ったよりもずっと軽くて、吹けば飛んでいってしまいそうだ。
「でも、お金」
「いいよ。嬢ちゃん美人だから。サービス」
返そうとした私の手首を強引に掴んで押し戻し、店主は人懐っこい笑みを浮かべた。
私はなぜか、胸がぎゅっと締め付けられるような気持ちになり、おもむろに頷いた。
普段使いには、あまりにも古くさい作りの髪飾りだけれど、つけてみると、鏡も見てないのになぜかしっくり馴染んでいるような気がした。
「ありがとう、おじさま。似合ってる?」
「そりゃあもう」
店を離れて、振り返ると、店主はずっと手を振っていた。
精一杯の笑顔を作って、手を振り返す。
気のいい店主に背を向けて、再び歩きだしたけれど、彼は私が見えなくなるまで、ずっと手を振っているような気がした。
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