(3)


 この辺りは私のような流れ者には過ごしやすい街らしい。

早々に通り過ぎようと思っていたのだけれど、気付けば、私はこの街で三日目の朝を迎えていた。


 私を囲むようにして、ちょっとした人だかりが出来ている。

頭上で風車のように回りながら落下する刀の柄を掴み、一振り、風を切る。


 子連れのおばさんが、抱えた紙袋の中から林檎を一つ取り出して、放り投げてきた。

私は弧を描くそれを、大太刀の腹ですくい上げるようにして受け取った。歓声が上がる。


 柄を握る手首を返して、頭上に林檎を飛ばす。

真っ直ぐ、空に向かって腕を伸ばし、両手で太刀を握り締める。

失敗する気がしない。

今まで何百、何千回と繰り返した動作だ。

その気になれば、豆粒だって真っ二つに出来る。


 ちょうど私の視界の上端に映り込んだ林檎に、真っ直ぐ太刀を振り下ろす。

手応えがあった。地面に落ちる前に、そのまま腰を落として林檎を掴む。

母親のスカートの裾を握っていた女の子にそれを手渡す。

真っ二つに分かれたそれを見て、目を真ん丸に見開いた女の子につられるように、周りの大人達も声を上げた。


 お辞儀をして、鞘に太刀を収める。

今日はいつもより小銭が多く集まりそうだ。


 見物する人が多かった分、いつもより多く舞ったので、うなじの辺りが汗ばんでいて気持ち悪い。


「美人な芸者さんだ」


 普段なら、そんな風に持て囃されて、目立ちそうになったあたりでそっと街を去るのだけれど、もう少しだけここにいたかった。

あるいはこの辺りで住み込みで働けるようなところがあれば、いっそのこと永住するのも悪くない。


 人を殺す剣は嫌いだけれど、人を楽しませる剣舞は好きだ。

あの花屋みたいなところで、慎ましやかに働いて、たまにこうして舞う生活を夢想する。


 愛想笑いを振りまきながら、荷物を纏めて人だかりの隙間をくぐり抜ける。

中には気さくに肩を叩く人もいた。

それでも、私は終始口を開かなかった。

長い口上や客との交流は、無粋だと思う。

剣舞は静かに舞うものだから、私は最中に口を開かないことにしている。


 ▼


 惣菜屋で買ったおにぎりをかじりながら、探偵と出会った河川敷を歩く。

シャーロットは見つからない。見つかるはずもなかった。

本当に見つかるだなんて微塵も思っていないけれど、彼女を捜していたい気分だった。

なんとなく、猫の鳴き真似をしてみる。

あの探偵が意地の悪い笑みを浮かべている様が頭をよぎって、途端に気恥ずかしくなった。

小さくなったおにぎりを頬張り、キャリーバッグを引きながら、私は視界の向こうに広がる景色に向かって、この河川敷を歩く。


 三十分ほど経って、私は自分の行動の、そのあまりの突拍子の無さを呪うと共に、来た道を戻り、探偵と会ったあの場所で何も見ずにしゃがみ込んでしまいたい気分になった。


 猫が、いた。

全身を覆う白い体毛は毛羽立っていて、ところどころが赤く染まっている。

横たわっている猫は、なんでもないようなこの場所で、静かにその命の幕を下ろしていた。


 オートバイにでも撥ねられて、土手を転げ落ちたのかもしれない。

無邪気で恐ろしい子供達に、石を投げられたのかもしれない。

猫が死んだ理由は私には分からないけれど、彼女はきっと、世界を恨みながら死んだのだと思う。

やっと手にした自由を謳歌することすらままならなくて、結局のところ、目に見える枷が取れたところで、撥ねられてしまえば、虐げられてしまえば、あっさり死に絶えてしまう自分の運命の窮屈さを嘆いて。


 吐き気がこみ上げる。鉛を飲み下したみたいに息苦しい。


 この子がシャーロットであるという確証は無いけれど、私にはもう、そうだとしか思えなかった。

でっぷりと肥え太ったおてんばな家出娘はグロテスクな肉の塊となって、きっと明日には衛生課に跡形も無く片付けられているのだろう。


「あなた、幸せだった?」


 自由を謳歌していた。

自分の足で歩いて、そんな風に錯覚していた時、彼女は満たされていたのだろうか。


 しゃがみ込んで、まだ綺麗な背の部分に触れようとした。


「悪い病気もらっちまうぞ」


 背後から声が聞こえた。

振り返らなくても分かる。

その声を聞いたのは、出会ったのはつい先日のことで、それ以来なぜか私の頭の中にこびりついていたから。


「こんな真昼間からセンチメンタルかよ。ガキは気楽でいいね」


 大きな足音を立てて、探偵は、猫を挟んで私の眼の前で大股を開いてしゃがむ。

ジャケットのポケットから礼装用手袋を取り出して手際良く右手にはめ、ごみを扱うような雑な手つきで、猫の首輪を掴み上げる。

枝肉のように探偵の指にぶら下がる猫は、どこからかは判然としないけれど、体液を漏らしていた。

短い足をつたって地面に滴り落ちるそれは、生命の残滓ざんしのように見えた。


「ビンゴ。シャーロットちゃん」


 片言のように呟き、道の端の方に死体を置いた。

彼はしばらく考え込むように腕を組んでうなり、こちらに視線を向けてきた。


「そんな顔で見るなよ。俺が殺したわけじゃねえんだから」


 言われて、私は初めて気がついた。

見知らぬ人に飼われ、自由を求めて飛び出した猫にどこか自分を重ねて、その末路である肉塊をぞんざいに扱う彼に、私はむっとしていたらしい。

そんな筋違いな感情をはっきりと認識した途端、行き場の無い怒りが胸にこみ上げてくるのを感じた。


 無理矢理噛み殺して、飲み込み、消化する。

それでも、猫の中に見た私の鏡像の末路を思うと、悲しみのようなものだけは紛れない。


「……なんで死んじゃったのかな」


「こりゃガキの悪戯だよ。傷つき具合から見るに、頭に石でも食らったんだろう。ろくに歩けねえ状態で的にでもされたか」


「そうじゃないわ」


 探偵は露骨に面倒臭そうな顔をして、私に聞こえるよう舌打ちをした。

けれども私だって、それくらいで気を遣って尻込みできるような気分じゃない。

数秒か、数分か、分からないけれど、私たちはそのまま黙りこくって、身じろぎひとつしなかった。


 ややあって、煙草の臭いが漂い始めた。


「自由に憧れちまったからだろうよ」


 まだら模様の金髪を掻きながら、探偵は土手の草っ原の上に寝転んだ。

煙草が唇から、空に向かって伸びている。

一口、喫って煙を吐き出す。その所作が、なにかを勿体ぶっているみたいだ。

まだ長い煙草を草ですり潰して、彼は口を開いた。


「自由なんてろくなもんじゃねえ。無いうちは欲しくて欲しくてどうしようもないってのに、手に入った途端、持て余しちまうんだ」


 意地の悪い物言いではなく、何かを哀れむような、寂しげな声色だった。

彼はなにを頭の中に思い浮かべているのだろうか。

あの白猫か。あるいは――――


「本当の自由なんて、虚しいもんだ。誰にも縛られないってことはつまり、誰からも必要とされてないってことだからよ。まぁ、そういうことに疲れて考え無しに突っ走っちまうんだろうな、自由に憧れる奴は。なあんにもありゃしねえ虚しい自由の中、何をするにもてめえでケツを拭かなきゃならねえ。ようやくそれに気付いた時、決まって奴等はこう言うんだ。寂しい・・・ってな。てめえで一人になりたがったくせに、人に縛られること、人に求められることに飢えちまって、みっともなくあっちにこっちにふらふら……ってよ。寂しさってやつは人をあっさり壊しちまう。まともな判断が出来なくなるんだ。そうなってることに、てめえですら気付かず、当然街中で肩をぶつけた連中はそんなこと知ったこっちゃねえ。誰も、助けちゃくれねえ。だからってだあれも悪かねえんだよ。もう、それは縛られることに慣れらんなかったやつのが悪い。そういう、もんなんだ」


 時折、言葉に詰まりながら、遠い昔を思い出すように、探偵は語った。


 私は聞いていて、耳を塞いでしまいたくなった。

けれど塞げなかった。

彼の言葉を蔑ろにすることを、他ならぬ私自身が許さなかったから。


 自由になりたかったけれど、独りになりたかったわけじゃない。

彼が言うには、それはひどく自分勝手な言い分で、あるいは、そうして自由というものの厳しさに耐えられた人ですら、既に自己愛という枷に囚われているのかもしれない。


 頭の中の小部屋を揺らす音が、断続的に響いている。

それは私の心臓の音だった。

口から心臓を吐き出してしまえたら、きっと今みたいに目の奥の熱さに苛まれることも無かったのだろう。


「泣きべそかいてるうちはまだやり直せる。さっさとてめえの家に帰りな。まだ一人旅なんて出来る年じゃねえだろ。パパとママが心配してるぜ」


 一息分だけ、言い淀み、間を置いて。


「親ってのは、そんなもんだ」


 泣きべそをかいていると言われてすぐ、涙が零れるのが分かった。

視界が滲んで、頬から顎を伝う湿り気がくすぐったい。

掌で目を抑えると、堰を切ったみたいに、熱いものが溢れ出てきた。


「…………十八だもん」


 探偵の顔を直視することは出来そうにないから、私は手で顔を隠したまま、やっとの思いで声を絞り出す。

それがすごく恥ずかしくて、何処かへと駆けてしまいたかった。


「よく言うぜ、クソガキがよ」


 鼻を鳴らす音――やがて、足音が聞こえてきた。


「がらにもねえや、喋り過ぎちまった。じゃあな。二度とそのつら見たくねえぜ」


 彼らしい、去り際の言葉だった。

だんだんと小さくなってゆく足音。耳をそばだてるように、薄れてゆく存在を辿る。

糸のようなものを繋いで、追いかけるでもなくその片端を握り締めているみたいだった。


 涙は止まったけれど、私はしばらくそのまま立ち尽くしていた。


 音が、聞こえなくなる。


 気付けば糸は、張り詰めることすらなく、ぷつりと切れ落ちていた。

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