(2)


 まず、ソファを蹴り上げる。

そして同様にテーブルもマヤに向けて蹴り上げ、足元の木箱を回収した。

ずっしりとのしかかってくるその重みに、七瀬は懐かしさを感じた。

だが、今はそんな感傷に浸っている暇は無かった。


「物騒ですこと」


 ソファにもたれかかったテーブルの角の上で、マヤはつま先だけで立っていた。

着物の裾から覗く白い足が艶かしい。

見た目となりのわりに、機敏なやつだと、七瀬は敵ながら感心した。


 マヤは番傘を七瀬に向けて、開いた。

七瀬の視界が赤い傘で覆われる。

咄嗟に身を屈め、自分の脇を庇うようにして、身の丈ほどある細い木箱を盾にする。

直後、小気味の良い音を立てて、銀色の刃が木箱の角に切れ込みを入れた。


「仕込み刀……古典的ね」


「よく視えたわね。褒めてあげるわ」


 軽口に動じない程度に、七瀬は集中していた。

木箱ごとマヤを蹴り飛ばす。その衝撃で、箱の蓋が開き、中から鞘に収まった刀が飛び出した。


 二ヶ月ぶりね、と、七瀬は自分の得物との再会を悲しむ・・・


 握り締めた鞘から刀を抜く。マヤの仕込み刀が、ほぼ同時に七瀬の大太刀にぶつかった。

数瞬の間に、三度の打ち合い。甲高い金属音が二人の耳を劈く。


「あら、お上手ね」


「あなたよりほんの少し、だけどね」


 マヤが皮肉り、七瀬も負けじと皮肉る。

博徒同士の戦いが、単純な技術の競り合いではないことを、二人は重々理解している。

これは、精神力を削り合う戦い。既に切り結ぶ刃だけでなく、研ぎ澄ました心の刃さえも、重く鍔迫り合っている。


 互いに手首を押し込み、間合いを取る。

先に仕掛けたのは七瀬だった。

短く息を吐き、倒れたソファとテーブルをマヤに向けて蹴り飛ばす。

それは例えるならば、ちょうどポルターガイストのように、物質が運動エネルギーをひとりでに獲得したかのように、マヤに向かって飛ぶ。


 マヤは涼しげな表情を崩さぬまま、袈裟斬りの構えを取る。

そしてそれに呼応するようにして、仕込み刀が発火・・した。


 七瀬はそれを見るなり横っ飛びでその場を離れる。

七瀬のいた場所を炎が駆り、吹き消されるようにして消える。

木造の床に焦げ跡が生々しく残り、七瀬の中の血液がどっと巡った。


「自然干渉……あるいはエネルギー干渉? まだ選択肢はあるけど、ここまで大っぴらなのは初めて見たわね」


 ネックレスをカットソーの襟口からしまい、刀を両手で握る。

敢えて自身の大雑把な推論を口に出すことは七瀬なりの作戦であり、揺さぶりだ。


 これは当然のことではあるが、博徒同士の戦いにおいて、自分の能力を隠し、相手の能力を看破することは、大きなアドバンテージとなる。

たとえ推論の過程がでたらめであったとしても、発言を受けた相手が表情筋諸々で見せるリアクションから答えが溢れれば儲けものだ。


「自然干渉、で正解よ。七瀬ちゃん。よく出来たから教えてあげる」


 仕込み刀の刀身は未だに煌々と燃えたままだ。

その切っ先を七瀬に向けたまま、マヤはほくそ笑む。


紅蓮崇拝アグニスター。その名のとおり、私は火を自在に操ることが出来るの」


 脂を焚べたかのように、刀の切っ先が爆ぜて燃える。


「おしゃべりね。そんなに余裕ぶってると舌を切り落とされるわよ」


「分かったところでどうしようもないでしょう?」


 そりゃそうね。と七瀬は忌々しげに毒づく。


 たとえば自分が空気中の水蒸気を集め、水を生み出す自然干渉系の能力を、あるいは炎の熱エネルギーに直接干渉できる能力といった、所謂いわゆるアンチ能力を有しているならば、マヤの発言は致命的なミスとなり得る。


 しかし実際のところ、七瀬の拒む者スプリガンはそのどちらでもなく、結局のところどのように立ち回れば被害を最小限に抑えられるか、見い出しかねている。


「そんなに見合ってたいのかしら。欠伸が出ちゃうわ。ねぇ、あなたも博徒なんでしょう? あなたの能力、教えてちょうだいよ」


 マヤは不遜な笑みを絶やさぬまま、深く腰を落とした。

発火し続けている刃の切っ先から、七瀬は絶対に目を切らない。


「お生憎様。あんたみたいにおしゃべりでだらしない女じゃないの、よ!」


 横倒しになったソファを踏み越え、七瀬は飛ぶ。

軽々とマヤの頭上を越え、さらに天井を蹴る。

直線的な動きは常人の運動能力を凌駕するほど速く、マヤの背後を取った七瀬は逆袈裟に太刀を振り上げた。


「まるでノミね」


 後ろ手に回したマヤの仕込み刀と鍔迫り合う。

読まれた! 七瀬が危機を察知するなり、その身体は糸で手繰り寄せられるようにしてマヤと一定の間合いを取る。

発火現象が一際激しく巻き起こる。それは七瀬から見て、マヤを守る炎の壁のようだ。


 しかし次の瞬間、七瀬は身を屈め、床を滑るようにしてマヤの目線の下に潜り込んでいた。

マヤから見て、七瀬の身の丈ほどもある大太刀の切っ先が、突如視界の端から飛び込んでくる。

咄嗟に上体を反らす。

銀の刃が、白金色の髪の毛を数本掠め取る。

仕込み刀を振るい、応戦するその動作よりも、七瀬の方が速い。

マヤの瞬きのたびに、コマ送りの映像のように七瀬は懐に飛び込んでくる。

一歩引き、打ち合い、一歩押し、打ち合う。


 息も出来ない。口の中に生唾が溜まる。飲み込むことすらかなわない。

数十合もの打ち合いを強いられ、マヤの掌は次第に痺れに侵されてゆく。


「こ、の……!」


 紅蓮崇拝アグニスターの発火を念じようとすれば、即座にその意識の隙間にねじ込むようにして、刃が飛んでくる。

涼しげだったマヤの表情は、既に険しかった。


 痛烈な一撃を、かろうじて受け止める。

甲高い金属音はどこまで響いただろうか。

マヤは両手で仕込み刀の柄を握り締め、痺れをこらえる。

だが、視線の先の七瀬の手から、大太刀は離れていた。


 それは一瞬の揺らぎ。

膝から下の力が抜けかけ、マヤの体勢が崩れる。


「そんなもの垂れ下げてるから息切れするのよ」


 七瀬は、マヤの豊満な胸の谷間に目をやり、吐き棄てる。

マヤの懐に潜り込んだ七瀬は、両手を重ね、掌底を谷間にねじ込んだ。

掌から槍でも伸びたかのように、直線上に吹き飛ばされたマヤの身体は事務所の壁にぶつかった。


 頭をもたげる間もなく、七瀬はマヤの眼前へと迫る。

刃の切っ先は、確実に肩口を捉えていた。

肉を貫き、骨を砕く感触が、刃から柄をつたい、七瀬の掌に伝わる。


 家出の時ぶりかしら。

そんな風に、七瀬は鮮明な殺生の感触を握り締めた。


「勝負あり、ね」


 抵抗の意思をへし折るように、七瀬はマヤの右肩に突き刺した長刀を、更に深々と押し込む。

肉が皮膚の内側から抵抗し、生々しい感触が伝わる。マヤは堪えたようなうめき声を漏らす。

肉を掘り進む感触。悪趣味だ。慣れている自分も。

肘がむず痒くなり、手を止める。

七瀬のカットソーは返り血を浴びて赤く染まっていた。


「殺しはしない。そう決めてるの。でもその一線を越えなければ、私は何をしてもいいと思ってるわ」


 腰を下ろし、大太刀を突き刺したまま左手でマヤの髪を掴んで引っ張り上げる。


「十秒あげるから考えなさいな。私が天使になるか、悪魔になるか。あんた次第よ」


 やれやれ、これではどちらが悪者か分からないわ。

非情な態度とは裏腹に、自己卑下の言葉が七瀬の中を染め上げてゆく。

これでは、これでは――――

あの頃から、なにも、彼との、約束も――

ノイズを追い払うように。

七瀬は心中で叫び続ける。

部屋の焦げ跡! 転がる刀! やらなければ、やられる! 自分も、彼も、この場所も――――


「よん、さん、にい……」


 マヤは犬のように短い息を吐き続けている。

呼吸は浅い。目は真っ赤に充血していて、無表情を被った七瀬の目を真っ直ぐ見ていた。

生ぬるい吐息が目の前の鼻先をくすぐり、七瀬はそれを煩わしく思ったが、あくまで表情には出さない。


 マヤの身体は震えていた。

七瀬も、それを刃越しに感じ取っていた。

羽織着物に覆われた左腕が、七瀬の頬へと伸びてゆく。


「いたいわあ」


 のっぺりと、間延びした猫なで声で、マヤは漏らした。

目尻から涙が溢れているのに、口元は薄く微笑んでいる。

粉塵のような火の粉が舞う。

このイカれ女! 七瀬は声にこそ出さなかったが、舌打ちを漏らした。

躊躇いなど、無かった。


 突き刺した刀の柄を逆手に持ち替え、そのまま真っ直ぐ引き下ろす。

肩からマヤの右腕を斬り落とす感触に、七瀬の肘は僅かに震えた。

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