3.七瀬は泣きべそをかく
(1)
それが七瀬が持つ能力だ。
博徒の力とは、先天的に持ち合わせているものと、育ってきた環境によって体得するものと、二種類ある。
彼女のそれは後者にあたり、しかもこの能力を、親族の者にさえもひた隠しにしてきた。
博徒の家で産まれた人間の多くが先天的に力を持つ中、彼女のようなケースは極めて珍しいイレギュラーと言っていいだろう。
博徒の能力と同様に、環境によって形成された人格と、その立ち回りはぴったりと合っていた。
この力を上手く使えば、喜助程度の賭場の博徒ならば軽々と屠ることが出来るという確信があるが、七瀬はそれをしない。
あるいは、坂崎がそのように命じればそれも
この距離感が、七瀬は心地良かった。
▼
ノースリーブのカットソーに細身のブルージーンズ。
七瀬は久々に、部屋着以外で砕けた服を着たなと、直近一週間を思い返した。
高級品と呼ぶには程遠いが、そこそこ値が張るピンクゴールドのネックレスを手の中で弄りながら、客人用のソファの上で寝転がる。
テーブルには光熱費の領収書が何枚か散らばっていて、開きっぱなしの帳簿には支出だけが淡々と書き記されていた。
七瀬が喜助で大勝を飾った夜。
唐突に黒子の男が襲いかかってきたことが、彼女は気がかりだった。
賭場に致命傷を与えるほどの大勝ちならまだしも、七瀬の勝ちは一日のうちに数回はある程度の、所謂
それくらいで目をつけられ、命を狙われるというのは流石に考えにくい。つまり……
「あちらさんの方が一枚上手ってわけね」
独りごちて、コーヒーを淹れる。
坂崎がいない事務所に、七瀬の声は余計に響いた。
七瀬は今日、休みだった。
彼女の休日は坂崎の気まぐれによって決まるので、大抵は手持ち無沙汰に街を出歩き、喫茶店で時間を潰して帰ることになる。
ある休日、七瀬は電車賃を叩いて、帝都まで出かけたことがある。
放蕩生活の中で、多くの都市を渡り歩いてはきたが、彼女が訪れた街の中でも帝都は群を抜いて人が多く、思考を持たぬ波のような彼等の隙間で、七瀬はただただ自分の小ささを認識させられているような気がして、それ以来帝都に近寄ることをやめた。
いつか、あの街を無感動に歩ける日が来るのだろうか。また、大人になるとはそういうことを言うのだろうか。
七瀬は夢想し、コーヒーを啜る。角砂糖二つ分の甘味が消えないうちに、水屋の中で眠っていた金平糖を数粒頬張り、噛み砕いた。それは、七瀬には少し甘過ぎた。
来客を知らせるベルが鳴る。
自分は非番だというのに、タイミングの悪い客だと、七瀬はため息を吐く。
手早く髪を手櫛で梳き、散らかったテーブルの上の書類を纏めてトレーに放り込んだ。
「いらっしゃい。坂崎は外出中だから用件だけ聞くわ」
そして、振り返り、目を見開く。
「今日は人生という道に迷ってしまって……探偵さんなら教えてくださるかしら」
豪奢な着物に身を包んだ花魁風のなりをした女が、七瀬を鋭い双眸で捉えていた。
閉じた番傘をはだけて露わになった肩にかけ、舐め回すようにして、七瀬の頭から爪先までを目でなぞる。
「……ご出勤前かしら。待合室で茶を啜る人生に嫌気でも差した?」
我ながらたちの悪いジョークだと、七瀬は思った。
頭の回転が停止してしまうくらいには、女のなりが頓珍漢だったから。
そしてなにより、一目で見て、自分はこの女のことを好きになれないと思ったから。
七瀬の言葉は、棘を持つ。
「面白いジョークだけど、残念ながら見当違いね。仕事中なの」
嫌味ったらしく、かんに触る喋り方に、七瀬はますますむっとした。
客人用にコーヒーを淹れかけた手を止め、ソファに座るよう促した七瀬は、女の反応を待たずに対面のソファに沈む。
「仕事中に人生相談? おたくのボスはえらく寛容的なのね。うちのバカにも見習ってほしいわ」
それは清流を思わせるような上品な所作で、着物の裾を掴み、ちょこんとソファに座る女は、
ますます、嫌な女だと、七瀬は思った。
「あら、私は仕事と称して部下を賭場で遊ばせる上司の方が、ユニークで素敵だと思うけれど」
七瀬の目つきが険しくなる。
同時に、七瀬は自分の
ちょうど今自分が座っているソファの真下。きっと埃かぶっているであろう木箱があるはずだ。
七瀬の身の丈ほどの大きさのそれに手をつけるまでの最短時間は、およそ二秒半。
「マヤよ。よろしくね、七瀬ちゃん」
マヤがどこからどこまで自分のことを観測していたか。
それを考えることは無駄であると、七瀬は腹をくくる。
この女が
「コーヒーでも淹れる?」
マヤはくすりと笑い、番傘の柄から手を離した。
「ええ、いただくわ」
人差し指で宙を指し、小さな円を何度も描く。
そして唇を突き出して、少しだけ考え込んだ。
「ミルクはいらないわ。口の中がべたべたになっちゃうから。それと、角砂糖は二つがいいわね。それくらいが、ちょうどいいの」
聞くなり、七瀬は立ち上がる。
自分用のマグカップは持ったままだ。
そしてそれを、おもむろにマヤの方へと放り投げた。
熱湯を湛えたカップが、マヤの指先へと傾く。
それは、開戦の狼煙だった。
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