(3)
ハンドポーチの重みは彼女の勝ちの重みだ。
そう考えると、七瀬は満更でもなかった。
あれだけ賭けを毛嫌いしていた七瀬が、はまってしまう人の気持ちも分からなくはないと思ってしまうくらいには。
ネオン通りから三本ほど抜けると、すっかりひと気は消え失せていた。
時刻は午前二時過ぎほどだろうか。賭場には時計が無いので、街を照らす月の位置から判断するしかない。
さっさと帰ってシャワーを浴びたい。夕飯を抜いてきたので、腹も減った。
たしか冷蔵庫に漬物があったはずだ。冷や飯をお茶漬けにして流し込んで、さっさと寝てしまおう。
そんなくたびれた一人暮らしの女のようなことを考えていたその時、渇いた
七瀬はそれが銃声であることに気付いた時、音から想定する距離、方向から、標的が自分であることを察知する。と同時に、手遅れだと、諦めかけていた。
刹那を引き延ばした時間は濃い。
濃霧のようなその時間の終わり際に、もう一度、渇いた銃声が響く。
七瀬の目の前で火花が散り、小さな鉄の塊が弾け飛んだ。
一瞬惚けていた七瀬だが、すぐに我に帰る。
弾丸と
七瀬の動作といえば、軽く壁を押してやっただけだ。
まるで巨大なバネに押されたかのように、彼女の身体はビルすらも飛び越えた。
少し鈍ったかしら、と、ぼやく。
そして狙撃手の位置としてあたりをつけていた場所を見下ろす。そう遠くない場所だった。
渇いた発砲音が、数発。視線の先からだ。
七瀬に弾丸を見てから躱す反射神経は無い。
だが彼女の固有の
七瀬は空を滑る。身を捩るまでもなく、彼女の身体は向かってくる弾丸の間をすり抜けるようにして滑空する。
時にその軌道は大きく弧を描き、ドレスの裾を棚引かせる。
操り人形の糸をめちゃくちゃに振り回せば、きっと人形はこのように動くのだろう。
最後の銃弾は、七瀬に銃身を蹴り上げられ、真上に放たれた。
「そろそろ花火大会の時期かしら?」
「当てたはずだ。外すなどあり得ない。俺がそのようにしたのだから」
声は上擦っていた。
彼等の視界の遥か上空にて、軌道の頂点に達した弾丸は不可視の力を受けて急速に落下する。
それはたとえば超小規模の隕石のように、確実な殺傷能力を孕んで七瀬の脳天を狙う。
風が鳴る。そして、彼女の頭頂部にそれが触れる直前、軌道は大きく逸れて真横のビルの壁に穴を空けた。
「博徒なら、自分を上回る能力者とぶつかった時の立ち回りくらい決めておきなさい」
黒子の男の発言から、彼の能力が弾丸を狙った対象に確実に命中させる能力、あるいはそれに準ずるものであると推測する。
なんら問題は無かった。むしろ、七瀬にとって銃を持つ敵ほどやりやすい相手はいない。
男を軽く蹴り飛ばすと、彼の身体は鈍い音を立てて壁にぶつかった。
死んではいないだろう。だが、全身のあちこちの骨が折れているかもしれない。
「ドレスを着てる子に荒事をふっかけない男の人が利口なんじゃないかしら。きっと女の子はみんな、そういうの嫌がるわよ」
重いハンドポーチを提げて、七瀬は再び歩きだす。
「肝に銘じておくよ。お嬢様」
どこかで響いたその声を、七瀬は聞いていなかった。
▼
「博徒だったか。あの女」
「ですわね」
七瀬も、御堂も、黒子も知らないとある場所にて、彼等はその一連のやりとりを全て観測していた。
「あの女だけは、絶対に許さない。私をこけにしやがって! いけすかない目で私を見やがって!」
怒気を隠そうともせず声を荒らげる男は倉科だった。
廃ビルの一室にて七瀬の後ろ姿を見据え、今にも食ってかかりそうに目を血走らせている。
「主人の探偵も共々に、全てぶち壊してやる。喜助のあらを探そうって魂胆らしいが、一探偵ごときにいいようにされるパトロンではないのだよ」
喜助という博徒団体の中で一定の地位を確立し、ある程度の自由を与えられている彼に、もはや自身が所属する組織に対する忠誠など残っていない。
その後ろ盾を利用して、いかに成り上がるか。自分を嘗めた人間を、どのように叩き潰すか。
プライドに支配された彼にとっては、それが全てだった。
傍らで不遜に腕を組み佇む少女は、そんな彼の内面を全て見透かしたうえで、彼の神経を逆撫でするでもなく、ただ無感情に付き従っている。
「マヤ。期待していますよ。下げたくもない頭を下げて上からお前を借りたのだから、相応の働きは見せてくれないと……」
お前の頭にいったいどれだけの価値があるのだ、と、マヤは口に出さなかった。
彼女の胸中など露知らず、倉科は物珍しそうにマヤを見る。
上等な和服姿ではあるものの、その着付けは独特で、大きくはだけた襟から覗く肩が目を引く。
何重にも羽織った着物の柄はどれも豪奢で、前面で結んだ帯は波に揺られるような、妖しい光沢を放っている。
視線をさらに上へと伸ばし、倉科はある思いを抱いた。
(博徒の女は総じてお高くとまってやがる)
完成された顔立ちだった。
日本帝国のものとはかけ離れた、大陸の人間の整った顔立ち。碧色の瞳。
透き通るような白金色の髪はシルクのカーテンのように伸び、その中で、一束だけ揺れる漆黒の髪が目を引く。
顔立ちこそ違えど、あの女に似ている。倉科は思った。
「どうです? 私のような凡夫にはさっぱりですが、貴女のような一流の博徒から見れば、彼女の能力も透けてくるものなのですか?」
わざとらしく皮肉めいた口調に、感情を動かすことすらも面倒臭い。マヤは静かに息を吐いた。
「……便利な能力ね」
窓から見下ろし、その小さな後ろ姿に向かって手を伸ばす。
褐色のカクテルドレスが、指の隙間で揺れていた。
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