(2)

 宵越しの博打なら、たらふく飯を食ってから行け。そうじゃないなら夕飯ゆうめしは抜け。


 坂崎の言葉だ。


 七瀬はその言葉通りに、夕食は食べずに喜助のビルの前まで来ていた。

日はすっかり沈んでいて、見上げれば満天の星空が、樹楽街を照らしていた。

 賭場で実際に賭けに臨むのは初めてのことで、大抵の些事では物怖じしないと自負する七瀬だが、数多の星を見つめていると、肩の力がすっと抜けるような気がした。


 ハンドポーチから手鏡を取り出して、表情を確認する。

鏡の中の暗い空間の中に、いつもと趣向を変えた薄化粧を帯びた少女の顔が、ぼんやりと浮かび上がっている。

 唇が艶めいて、普段彼女の表情の中で、色っぽさと共存しているあどけなさは、ちょうどスコッチとロックアイスの境界のように薄まっていた。


 既製服の、ドレープが入った褐色かちいろのカクテルドレスは、その安価な値段のわりに、七瀬の上品さを際立たせている。

アップで纏めた髪から零れ落ちるように垂れた一束の白髪が、入れ違う者を振り向かせるだろう。


 自分が完璧′′であることを確認するなり、七瀬は喜助の門扉もんぴを叩いた。


 まばゆい照明の光が、七瀬の瞳に真っ先に飛び込んできた。それは眩暈を催すほどのもので、彼女の目が慣れるには三秒の時間を要した。

 足元に視線を移すと、次は絨毯じゅうたんの深紅が彼女の瞳を刺す。

 こんな場所にはまるやつは、きっとろくなものじゃない。七瀬はそう思った。


 賭場はろくな場所じゃない。煙草の煙は充満して、集まる人間には酒の臭気がこびりついてやがる。

お前がその空気に気持ちよく酔える人間じゃないなら、常にガムを噛んでいろ。


 坂崎の言葉だ。

なるほど確かに、ガムを噛んでみるだけで、七瀬の鼻から潜り込んでくる毒気のような臭気は、ミントの匂いのお陰で幾分か紛れていた。

 どうやら景気は良いようで、無料でシャンパンが振る舞われているらしい。

七瀬は黒服から差し出されたそれを丁重に断ると、まず、人の入れ替わりがそれなりに多く、かつ胴元の人間に監視されにくい博打を考えた。

そして、その答えはすぐに見つかった。


「ツモ。五百と三百」


 凛とした声が鳴る。


 雀卓を囲む七瀬以外の三人の中に、喜助の関係者はいない。

場代を徴収することによって胴元が利益を出すこの博打なら、喜助の人間の情報を探ろうとも捕捉されにくい。むしろ、客同士の博打を覗きに来る方が不自然であり、野暮だと嫌われることだろう。


 対面の親が手牌を伏せ、忌々しそうに、七瀬に向かって煙草の煙を吹きかけた。

待っていましたと言わんばかりに、七瀬はわざとらしく咳き込んでみせる。

彼女を挟んで同卓する二人の紳士が、庇うようにして親だった男を睨みつけた。


「この半荘で抜けますわ……」


 みすぼらしく、若い男に用は無い。

喋り好きな常連を囲い込み、適度に点棒を与えて太らせる。ちょうど、邪魔者からむしり取った血肉を食わせる形で。


 上家の強気な打牌を確認し、七瀬は敢えて差し込む。打点はそれほど高くはなかった。僅かの差でトップに立つ七瀬を、二人の紳士が追いかける。

 既に何度も繰り返された構図だが、愚鈍な紳士は気付かない。


「オーラスかぁ。ようし、今度こそまくるぞお」


 背広を脱ぎ、シャツの袖をたくし上げる。

「お手柔らかにお願いしますよ。おじさま」と、七瀬が口元を抑えてほくそ笑む。

いけ好かない女だと、若い男は腹の中で毒づいた。


 若い男は勝利を確信した。

配牌の時点で恵まれていたのだ。何も考えずに、最速で最良手にこぎ着けた。

七瀬の順が回ってきて、彼女は少し考え込むような素振りを見せた。


「カン」四枚のリャンピンが露わになる。「リーチ」


 男は自分の手牌と七瀬の河を見比べ、安全牌が無いことを悟る。

しかしだからといって、真っ直ぐに地雷原を突っ切るような愚行には走るつもりも無かった。


「ようし、おじさまもいっちょ頑張ってみようかね」


 七瀬の下家が強打。そして場に二本目の点棒が落ちた。


(余計な真似しやがって、たぬきが……)


 この場が喜助ではなく、場末の安い賭場だったならば、気が短い彼は卓を蹴り飛ばしていたかもしれない。

 

 男が引いた牌は、安全牌ではなかった。七瀬を見る。彼女は、こめかみから垂れた一束の白髪を指先でねじりながら、挑発的な視線を飛ばしていた。


(このクソアマ……)


 血が沸き立つような感覚に、男の思考が冒されてゆく。

鼻から塊のような息を漏らし、指先が暴走するのを防ぎ、すんでのところで引いてきた牌を握り締める。


(一歩遠回りになるが仕方ない)


 七瀬のカンによって生じた壁の先、既に面子となったイーピンと握った牌を入れ替え、強打した。


「ロン」予め分かっていたかのように、七瀬の手牌が間を置かずに倒れる。「裏三つ乗って二万四千」


 男は卓の足を蹴り、点棒を場に投げ捨てた。


「女相手に賭けなんてやってられるかよ」


 捨て台詞を残して立ち上がる。確実に自分を狙い撃っての和了だと確信しているからこそ、七瀬がいる場所で賭けをやる気にはなれなかった。


「マナーの悪いお客さんだね」


 左隣の紳士が七瀬を気遣う。


「ここも昔は質の高い賭場だったんだがね」


 右隣の紳士がそう重ねるのを見計らって、七瀬は食い気味に口を開く。


「おじさま達は昔からの常連なんですか?」


 二人とも昔話にでも興じたかったのだろう。気を良くして深々と頷く。やっと機が熟したなと、七瀬は胸の中で呟いた。

ちょうど後ろを歩いていた黒服を呼びつけ、冷えたビールを二本とジンジャーエールを一本頼んだ。


「私、こういうところは初めてだから興味があるの。良かったら聞かせてくださる?」


 七瀬の取り繕った愛嬌に、二人の紳士は完全に虜になっていた。

 大っぴらに自惚れたことを言うつもりは無かったが、七瀬は自分が持つ魅力を、ある程度は自覚していた。


「ハイボールも一本つけてくれるかい? なに、お近づきのしるしに僕が持つからさ」


 長い髪を後ろで一つに結わえ、スーツはだらしなく着崩した軟派な男だった。


御堂善鶴みどういづると言います。昔気質の博打が好きでね、腹を割って話そうか」


 散らばった牌を数枚握り、小手返しを繰り返す。

七瀬は少し悩んだが、この街で自分を知る者などいないだろうと、開き直り……


「一ノ瀬七瀬」


 忌むべき自分の姓を名乗った瞬間、彼女は自分の中で刃が研ぎ澄まされてゆくのを感じることが出来た。


 ▼


(露骨な狙い撃ちね……)


 長い半荘だった。

御堂は執拗に七瀬を狙い続け、七瀬はそれを出し抜こうとする。

御堂とて坂崎のように都合の良い豪運を持ち合わせているわけではないので、必ずしも和了ることが出来るわけではない。

それでも確実に他家の和了を潰しきり、親を継続させていた。


「長い夜になりそうだ」


 ツキや確率では説明がつかない読みに、七瀬は真っ先に自分の癖を疑った。

しかし七瀬とて、賭場での博打は初めてと言えど、持ち前のセンスと坂崎の仕込みもあって、ひとかどの勝負師と呼べるだけの腕を持ち合わせていた。そのような初歩的なミスなどあるはずもない。


 負けが混んだ時こそどんと構えろ。相手してやるくらいの気概でちょうどいい。視野がぐっと広くなる。


 坂崎の言葉だ。

多少狙い撃たれたところでどうというのだ。自分にはたっぷりと巻き上げた勝ち分が残っている。

そんな風に、気楽に構えてはいたものの、活路は見えなかった。

負けっぱなしの時にありがちな、思考が澱んでいるような感覚は無い。となれば……


 それでも駄目なら何を考えても駄目だ。相手の性格ととことん合わないんだろう。いっちょ運否天賦に身を委ねて、一発殴れりゃそれでいい。それも無理ならおととい来やがれ。


 思い出したその言葉に、なんて無責任なのと返したのをよく覚えている。

だが今は坂崎の言葉が、何よりも励みになった。


「ツキが逃げたみたいだし、そろそろ抜けますね」


 この半荘、この局が最後だ。

両隣の紳士は、纏わりつくような勝負′′の空気にあてられて、すっかりまいっていた。まったく、してやられたものだと七瀬は溜息を吐く。


 ばらばらの手牌をなぞって、第一打。ツキにも見離されたか。いや、これでいい。

第二打、第三打も強く響く。あっという間に、七瀬は逆転の手を作り上げた。


 御堂が調子外れの口笛を吹いた。呆れたような顔をして、やれやれだと言わんばかりに力無く牌を切る。七瀬の目は牌の山に向いていた。


「勝負師ってのは時に、神がかった超感覚を発揮することがあるよね。つくづく不思議な生き物だよ」


 唐突に語り出した御堂に、左隣の紳士は怪訝な視線を飛ばす。そしてうんうんと唸って、迷い抜いた打牌。


「きみ、今がそうなんだろう?」


「ええ」七瀬はしたり顔で応えた。「私の和了り牌はここにある」


 ばらばらの手牌が倒れた。


「一万六千オール」


 両隣の紳士は共に泡でも噴きそうなくらいに青ざめた顔をしていた。

多少の負けでは揺らがない程度の財力はあるが、この負けは流石に予想外だった。

 御堂が立ち上がり、渇いた拍手を七瀬に送る。

勝負には勝ったが、七瀬の思惑はすっかり潰されてしまっていて、手放しには喜べない。七瀬はついいつもの癖で出してしまいそうになった舌を引っ込め、黒服を呼びつける。


「精算してくださる?」


 十枚の万札は五十枚になっていた。


 ▼


 手早く精算を済ませた七瀬だが、御堂がしつこく付きまとってくる。七瀬は無視を決め込んでいたが、とうとう痺れを切らして、ひと気の多いネオン通りで振り返った。

何度かの、歯が浮くような台詞を雑に聞き流し、ようやく時系列は戻る。


 唇と唇が、もう触れ合うところまで近付いていた。

生唾を飲み込むことすらかなわない。飄々とした謎の多い男だが、その完成された容姿に、七瀬は少なからずどきまぎしていた。


 七瀬はなぜか、坂崎の顔を思い浮かべた。

ぶっきらぼうで、忌々しい雇い主。八重歯を出して意地の悪い笑みを浮かべている時など、張り倒してやりたくなる。


 賭けに勝った帰り道には気を付けな。賭場に通う独り身の女ほど、男以上に強くなきゃいけねえ。


 なによ知った風な口をきいて。

ろくに数字も読めないくせに、私がいなきゃ勘定もままならないくせに。

あんたなんかに言われなくたって、私はそれくらい弁えてるんだから!


 それはここにはいない彼にも向けた一撃だった。

すけこましの御堂が女からぶたれることなど、両手の指では数えきれないほどある。

だが七瀬のビンタは、今まで彼が受けたそれよりも遥かに強く、重かった。


「あっれえええええ?」


 間抜けな声を上げて、御堂は吹っ飛んだ。

傍に立てかけられた看板にぶち当たった彼の悲鳴は、更に頭上から落ちてきたがらくたに掻き消される。


「お生憎様。賭場の女はそんなに安くないんだから」


 べえ、と舌を出して、七瀬はそれきり一度も振り返らなかった。

髪留めを外し、纏めた髪を払う。ヒールがアスファルトを打つ音は、遠くまで響いた。


「やれやれ、いい女ほど簡単には口説けないものだねぇ」


 がらくたの山から顔を出し、御堂は目を細めて、少女の小さな後ろ姿を見つめる。


「だからこそ、こんなところで死なせるには惜しいよね」

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