2.七瀬はビンタする

(1)


「かっこよかったよ、七瀬ちゃん」


 さてどうしたものか、と、七瀬は控えめに俯いて表情を隠した。

毒々しいネオンの光が、仮面を引き剥がすように、彼女の顔を照らす。


「照れてるのかい? 可愛いね」


 御堂みどうは、七瀬の顎を指ですくい、あと数センチで触れ合うところまで詰め寄った。

七瀬は、耳の裏まで真っ赤になっていた。

髪をアップスタイルで纏めたことを、彼女は後悔した。

野暮ったいくらいに髪を下ろし、すっぽりと黒色のカーテンを被ってしまえば、こんな軟派な口説き文句に付き合わずに済んだのに。


 さらに言うと、褐色かちいろのカクテルドレスは、彼女によく似合っていた。

喪服でも来てくればよかったのかしら。

そんなふうに、胸中で嘆いてはみるものの、御堂の射抜くような視線は真っ直ぐ七瀬の瞳に突き刺さり、捕らえて離さなかった。


「やめてよ。私、そういうの興味ないんだから」


「だったら僕を突き飛ばせばいいさ。無理やり抑えつけて、なんてのは趣味じゃないからね」


 七瀬は、放蕩生活の最中、強引な男に言い寄られることは少なくなかった。

ときには裏路地に引きずり込まれることすらあったが、そういう窮地ですらも、彼女は眉ひとつ動かさず平穏無事に潜り抜けてきた。

自分には、そういう修羅場をやり過ごす力があると自負していた七瀬だが、端正な顔立ちをしたこの優男の目を見ていると、心が揺らいでしまうのだ。


「ほら、リラックスして」


 間近に迫った御堂の唇から、ほんのりとウイスキーの臭いが漂ってくる。

自分も酔ってしまっているのではないかと、七瀬は錯覚した。


 まるで、心臓が首筋のあたりに移動してしまったみたいに、彼女の心臓の鼓動は、脳に強く響く。


「ほら、やっぱりよくないわ。私たち、今日知り合ったばかりなのよ」


 彼女の能力をもってすれば、御堂の頬骨を砕き、二度と軟派な真似が出来ぬよう矯正してやることなど容易い。


 七瀬は、そうであるにもかかわらず、それをしない自分を、詰った。


 ▼


 時は遡る。

七瀬はすでに三色団子を八本平らげていて、九本目に手をつけようかどうか、悩んでいるところだった。


「しかし、なんだってこの店が欲しいんだろうな」


 それは桃花庵とうかあんの店主、カズミに向けられた言葉だ。

坂崎は七瀬の暴力的な甘味摂取を出来るだけ見ないようにしながら、カズミ老人に問いかける。


 カズミは困ったように唸りながら、ちらと七瀬を見た。ちょうど、目が合った。

九本目の団子を手に取り、控えめにもう一本くれと、人差し指を立てて訴えていた。


「食い過ぎだっつうの」


「別にいいじゃない。すぐそうやっていちゃもんつけたがるんだから」


「お前はすぐそうやって口ごたえばかりしやがる。豚みたいに肥えても知らねえからな」


「あんたと違って頭使ってカロリー消費してるから、ご心配なさらず」


「こ、の、クソガキ……」


 九本目の団子を頬張り、二、三度噛んだだけで飲み込む。

そして七瀬は、いやみたっぷりに舌を出してみせた。


「七瀬ちゃんは」


 カズミが十本目の団子の皿を持って、二人の間に割って入る。


「坂崎さんが好きなんだねぇ。おっおっおっ」


 七瀬は素っ頓狂な顔をして、何度か瞬きした。

彼女の顔は、みるみるうちに、ゆでだこのように赤くなっていった。


「ばか! このばか! 不潔よ! このとっちゃん坊や!」


「やめろ! なんで俺を叩くんだよ!」


 二人揃って同じようにぎゃあぎゃあと喚き散らすので、他に客のいない桃花庵も、幾分か賑やかだ。

採算などもとよりとれていないこの店で、二人が我が家のようにくつろいでいることが、カズミは嬉しかった。


 ▼


 喜助きすけという賭場がある。

樹楽街最大の高層ビルのうち、五フロアを繋げた大規模の賭場で、最大の賭場と称される九郎には及ばぬものの、街に存在する数多の賭場の中でも、五本の指に入る大賭場だ。


 先日、桃花庵に押しかけてきた倉科は、喜助の人間だった。

賭場の立地条件など知らないが、どうやら彼等にとって、この土地は、ちょうど誂えたかのように、規模を展開し、喜助の二号を建てるには良いらしい。それが、カズミから聞いた話だ。


「ふうん」


 聞いているのかいないのか分からないような、のらりくらりとした受け答え。

坂崎は、五枚並んだカードのうち、伏せられた最後の一枚をめくる。


「レイズ、二本」


「受けるわ」


 七瀬が間を置かずに答える。

両手で二枚のカードを握り締め、穴が空くほどそれを睨んでいる。

坂崎はだらしなく足を組み、肘を椅子の背もたれに預けていた。火をつけていない煙草を咥えたまま、手の内の二枚のカードをさらけ出した。


「フォーオブアカインドだ」


 坂崎の手役を見るなり、七瀬はテーブルに突っ伏し、投げ捨てるようにしてカードを晒す。フルハウスだった。


 二人はこのように、手持ち無沙汰な時間が出来ると、気まぐれで賭け事をする。

七瀬が自身の身銭を切った博打を嫌うので、賭けの対象は専ら家事当番の回数だ。

今の負けで、七瀬は向こう二ヶ月洗濯をしなければならなくなった(七瀬が作る料理は個性的な味がするので、料理だけは賭けの対象にならない)。


 二人でやれるゲームには限りがあるが、出来るものは全てやる。

今はテキサスホールデムだが、チンチロリンやおいちょかぶ、花札など。

しかし、七瀬が坂崎に敵うものは一つも無かった。


「ちっ。女子供とやる博打はどうも運が逃げらあ」


 大勝を飾った坂崎だが、自身の引きに納得はしていない。

七瀬はすっかりむくれてしまって、賭けに応じた三十分前の自分を胸の中で罵倒し続けていた。


「強いねぇ」


 カズミは坂崎と七瀬に恭しく茶を出し、坂崎の手元に並ぶ二枚のクイーンを見て目を丸くした。


「ガキのころに爺さんに仕込まれたんだよ」


 遠い目をして、坂崎は気もそぞろに七瀬の右肩辺りを眺める。

顔を上げた七瀬は、そんな落ち着きのない坂崎を見ても、からかう気力すら無い。


「ちょっとは賭場で稼いでくればいいのに」


 その程度の皮肉しか吐けないもので、もはや坂崎すら、売り言葉に買い言葉とはいかなかった。


「やらねぇよ。博打なんてものは、そもそも運が無いやつがやることだ。本当に運のいいやつの元には、賭け事なんかしなくても金が舞い込んでくるからな」


 それは、坂崎が祖父から受け継いだ言葉で、彼の人生観に最も影響を及ぼした言葉だった。

祖父の言葉は多けれど、この言葉以上に、彼の胸に刻み込まれたものは無い。


「そのわりには、ウチには全然無いわね、お金」


 それは生意気な皮肉ではなく、心からの嘆きだった。

拝金主義の彼女にとって、贅沢が出来ない環境など何一つ苦にはならないが、貯蓄が少ないということが、ただただ耐え難かった。


 坂崎は思案する。


 自分には、十五歳の身寄りの無い少女を引き取った責任があることを、彼は痛いほどに理解している。

当然、七瀬には坂崎を拒む権利があったし、彼も、もしそうなったとすれば、七瀬という存在を自分の記憶の領域の外に追いやり、無かったものとして扱う事も出来た。


 二人でテキサスホールデムに興じる今は、七瀬と、坂崎がそう望んだから実現しているのだ。


 では、自分達が一緒にならなかったとして、七瀬は今よりも幸福であっただろうか、自分達が選んだ道が一番だと、胸を張って言えるだろうか。


 そこまで考えたあたりで、坂崎は意図的に思考を雲散させた。

 辛気臭いのは、自分らしくない。

 胸を張って言えないのであれば、言えるようにすればいいのだ。


 年頃の少女が好む服を買ってやればいい。好きなものを食べさせてやればいい。生活に伴う不安など、笑い飛ばしてやればいい。


 そしていずれは、彼女の中に病魔の如く巣食う拝金思想すらも……


「……喜助、行ってみるか」


 重々しく閉じていた口を開く。

そこでようやく、坂崎は咥えていた煙草に火をつけた。


「な、なによ……お金無くたって平気よ。そんな気を遣わなくたっていいんだから……」


「お前がだよ」


「へ?」


 七瀬は散々坂崎に打ちのめされた直後に、賭場に行けと申し渡されるとは思わなかった。

猫のようなアーモンド型の目をさらに丸く見開き、そして敗れ去ったフルハウスに視線を移す。


「心配すんな。お前が弱いんじゃねぇ。俺が強過ぎるだけだ。滅多な張り方しなけりゃ、酷い負け方はしないだろうよ」


 坂崎の見立ては正しかった。

彼の豪運と勝負強さは、天賦の才能と言っていいだろう。

七瀬の張り気、駆け引きが間違っているわけではないのだ。

むしろ坂崎は、七瀬は筋がいいと見ている。


「金が欲しけりゃ自分で稼いでこい。いい人生経験になるだろう」


「い、いやよ。私、身銭切ってまで賭け事なんてしないんだから」


 七瀬が言い終わるよりも先に、坂崎は財布から一万円札の束を取り出して、テーブルに叩きつけた。ちょうど十枚だ。


「仕事の経費だ。なんなら気持ち良く負けてこい」


「……仕事?」


「あの倉科とかいう狐野郎、喜助の人間なんだろう。お前、ちょっくら潜り込んで探ってこいや」


「なんでまた、そんな探偵みたいなことを……」


「探偵だよクソガキ!」


 カズミが仰々しい笑い声を上げる。

そのたびに、坂崎は怒気を吸い上げられるような気がした。

 茶を一息に飲み干し、吸いかけの煙草を備え付けの灰皿の上ですり潰す。

気の迷いで喫い始めたものの、自分には合っていないと、坂崎は自覚している。


「ま、仕事だと思ってやってみろ。賭場ってことは博徒も絡んでるだろうしな」


「どうでもいいわよ。博徒なんて」


 七瀬は一瞬眉を顰めたが、すぐに仮面をかぶるようにして、無表情を貼り付ける。


「はっ、またくだらねえ意地を張りやがってよ。賭場の荒らし方くらい覚えてこいよ」


 七瀬は何も応えなかった。

テーブルの上に散らばったカードを手際良く片付け、ケースにしまう。

茶を冷ましながら飲み、雑に投げられた十枚の万札を、大事そうに握り締めた。


 決して少なくない額だ。

事務所の帳簿を管理している七瀬は、この金はどぶに捨てていい額ではないことを、重々理解している。

 いらないと、突き返したところで聞きはしないだろう。

確かに、坂崎の言い分は理に適っていた。

 賭場での立ち振る舞い。喜助の人間の調査。どちらも、いずれ七瀬に教えなければならない仕事だ。

そしてそれらが、今日であってはならない理由などないのだ。


 七瀬はジャケットの胸ポケットに万札の束を収めた。

そうだ。うんと勝って坂崎を驚かせてやろう、と、彼女は決意を固めていた。


「借りとくわ」


「別に返さなくてもいいぜ」


 二人は互いに目を合わせて、似たような笑みを浮かべた。

坂崎は不遜に鼻を鳴らし、七瀬はべえ、と舌を出した。


「ドレスの用意しなくちゃ」と零すなり、七瀬は坂崎を置いて早々に去ってしまう。

残された坂崎に、カズミはまだ遠慮を含んだ声色で、話しかけた。


「うんうん、分かるよ。子供っていうのは可愛いもので、ついつい甘やかしちゃうんだねぇ」


「あいつが俺のガキだとしたら、もうちっと可愛げがあるだろうよ」


「そうかなぁ?」


 年の差こそ考えなければ、二人の根本は似通っていた。少なくともカズミには、そう思えた。


「七瀬ちゃん、一人で行かせていいのかい? 大きい賭場には揉め事がつきものだし、あんな調子じゃあカモられても……」


「賭けの気概なら、俺が直々にお遊びの中で叩き込んだつもりだ。無駄な質問だな。それに……」


 言いかけて、坂崎は口を固く閉ざした。

 それを明け透けに他人に語るということは、七瀬に対する最大限の冒涜に値するからだ。

 それは彼女が、生涯を賭けて断ち切りたい血の繋がり。


 七瀬は、博徒の娘だった。

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