(3)


 七瀬は基本的に少食だ。

特に味付けの濃い料理ともなれば、二、三口ほど手をつければ辟易へきえきしてしまうほどに、食が細い(坂崎の手料理は、七瀬の口には合っている)。

彼女の肢体ががりがりにやせ細っているのは、当然のことだった。

そんな七瀬ではあるが、甘味となれば話は別だ。


「まだ食うのかよ……見てるだけで気分が悪くなってくらぁ」


「当たり前よ。今日で最後なんだから、後悔しないように食べなきゃ」


 既に空のパフェグラスは五つに及んでいた。

今日だけは奢ってやると、坂崎の言葉を確認するなり、七瀬はパフェをがむしゃらに食い潰し始めた。

そのペースは一定で、それでいて速く、大掛かりな掘削くっさく工事の縮図のようだった。


「そんなこと言わずに、自分のお金で食べに来ておくれよ」


 目尻を下げ、苦笑を浮かべるカズミを見るや、坂崎は申し訳ない気持ちになる。


「この人でなしがお給金を上げてくれたら考えるわ。私だって悲しいの。でもこの人でなしがね……本当にこの人でなしが」


「てめぇが買い出しの金ちょろまかしてたのが悪いんだろうが! いい加減にしやがれ!」


 坂崎はデザートスプーンを力いっぱい宇治抹茶かき氷に突き立て、山盛りの氷をすくい上げた。

それを頬張ろうとしたその時、彼の背後で引き戸を蹴破るような音が鳴り響く。


 七瀬はパフェを掘り崩す作業を止めぬまま、じっとりとした目で、音がした方を見つめる。

坂崎は、ちらとだけ視線を移し、瞬時に状況をうかがい、口を真一文字に結んだ。


「相変わらずかび臭い店ですねぇここは」


 歌うような、仰々しい声色だ。声の主は革靴をわざとらしく鳴らしながら、七瀬達が座るテーブルの横を通り過ぎた。

ワインレッドのワイシャツにスラックス姿の、如何にも小金を持っていそうでいやみな男だ。

針金細工のような細身。艶のある黒々とした髪を一束だけ額の生え際から垂らす髪型は、中性的で整った彼の顔立ちに、色気を含ませる。

七瀬は彼の目尻の泣きぼくろに目を取られたが、すぐに視線をパフェに戻した。


 色男の後に続いて、これまたいかにもといった柄の悪い男衆が五人、倒れた引き戸を乱暴に踏み倒しながら店内に入ってくる。

揃いも揃って威圧的な視線をカズミに向けているので、七瀬と坂崎は剣呑けんのんな空気を感じ取り、互いに目配せする。


「なにを身構えてるのですかおじいさん」


 色男が下卑げびた笑みを浮かべながら、カズミ老人の目の前にずい、と歩み寄る。

物腰穏やかな好々爺はそこにはおらず、媚びへつらったような笑みを貼り付けた醜い老人が、おずおずと揉み手をしていた。


「おいお前達! この店では客に茶も出さないらしい! 悲しいなぁ! こちらもそれ相応の態度を取るしかないな!」


 聴衆に訴える胡散臭い政治家でも、これほどわざとらしくはないだろう。

色男が声を張り上げるのに呼応して、男衆も鼻を鳴らしながら店内を闊歩かっぽする。


「おや、休憩中のところすみませんねぇ。私ら、人間が出来ていないもので、少し騒がしいかもしれませんが……」


「勝手にしろい」


 坂崎は自分に向けられた言葉をはたき落とすように即答する。自分から事を荒らげるつもりは無かった。

七瀬も、自身の雇い主の意思を汲んで、黙々とパフェを崩す。


「ねぇおじいさん。私らも荒事は避けたいのですよ。貴方が豊かな老後を過ごせる程度の金は払うし、こちらの言い値が物足りないというなら、上と掛け合ってみればもう少し色を付けることも出来ますよ」


 微塵も内情を隠そうとしないその態度に、七瀬は噴き出しそうになった。


 要するに、この色男はカズミ老人にここを立ち退いてほしいのだ。

絵に描いたような小悪党に見えるが、実はそうでもないらしい。

いくらか譲歩の余地を見せて交渉に臨んでいるあたり、話が出来ない人間ではなさそうだ。

閑古鳥かんこどりが鳴く店をいつまでも抱えていたところでどうしようもない。

カズミにとっても悪い話ではないはずだが、当の本人ははぐらかすように、空気が抜けたような相槌を打つだけだった。


 ちらちらと、カズミは助けを求めるように坂崎を見るが、彼はそれを知った上で、素知らぬ顔をしている。


 しばらく、色男は脇腹を刺すような粘っこい罵倒を続けた。

カズミは胃痛を患って倒れてしまいそうなくらいに青ざめていた。


 業を煮やした色男は、カズミがうやうやしく差し出したお茶を受け取るなり、坂崎の頭上でグラスを逆さにした。


 七瀬はおもわず尻を浮かせた。

激昂して飛び上がるのだろうと思いきや、坂崎よりも先に、カズミが動いた。


「なにやってんだてめぇ!」


 それは七瀬が今まで聞いたことのない、カズミ老人の打つような怒号だった。

色男の胸ぐらを掴み、カズミは細い目を見開いて、詰め寄った。


倉科くらしなさん。あんたろくでもない人だよ。私をいくら詰ったって構わない。だが、うちのお客さんに手を出したら……私はあんたをぶん殴ってでも追い出さなきゃいけねぇ」


 隣で聞いている七瀬すら竦み上がってしまいそうなほど、鬼気迫る怒号だった。

しかし当の倉科は、竦むどころか喉をくつくつと鳴らし、口元を歪めて笑みを浮かべている。

 魚が網にかかったぞとでも言いたげだ。


「いやなに、手が滑っただけでしょう。立派な暴行ですよこれは。ほら、こいつらが証人だ。弱りましたねぇ、私はあくまで荒事は避けたかったのに……しかたないですねぇ」


 それは予定調和のように、男衆は一斉に吠え、飛びかかる姿勢を見せた。その時だった。


「うるせぇな。最低限のお行儀も知らねぇのかい」


 水を打ったように、店内が静まり返る。

しみだらけの天井を仰ぎながら、坂崎は、立ち上がって椅子を蹴り飛ばした。


「人が涼んで氷を食ってるところにずかずか上がり込んできては、薄汚い銭勘定の話をしやがって……しまいにゃ人様の頭に冷や水ぶっかけておいて、詫びの一つもナシってかい。兄ちゃんよ、その綺麗な顔を凹まされたくなかったら、今すぐ博徒ばくとの真似事は廃業にするこった」


 坂崎は冷静な口調に努めていた。七瀬にはそれが分かった。

そして、彼の口から博徒という言葉が発せられた瞬間、七瀬と倉科の表情が険しくなる。

しかし倉科はすぐに下卑た笑みを貼り付け直し、ワイシャツの胸ポケットから、クリップで留めた薄い一万円札の束を床に放った。


「これは失敬。ほら、慰謝料ですよ。その安物のスーツのクリーニング代には充分で――」


 倉科の言葉を、鈍い殴打の音が遮った。

坂崎の拳が、彼の頬を打ち抜いた。

男衆は揃って目を見開いてほうけていたが、やがて各々我に返り、獣のような威勢の良い雄叫びを上げる。

彼等の標的はカズミ老人ではなく、坂崎だった。


 坂崎はぎょっとした。彼は腕っ節が強くない。

一瞬の情動に突き動かされたは良いものの、自身に飛びかからんとする獣の群れを見るなり、背筋を震わせる。

しかし、彼の負けん気は、その程度の恐怖では引っこまなかった。


「七瀬! こいつら全員しばいてやれ!」


 頬を打たれ、よろめく倉科の胸ぐらを掴んだままのカズミの手を乱暴に引っ張り、坂崎は身を翻して店の隅に寄る。


 七瀬は、男の群れに向かって跳んでいた。


「十五の女の子の後ろに隠れて言う台詞じゃないわね」


 七瀬の細身は、重力を感じさせないほど滑らかに、宙を跨ぐ。

男衆の中心に着地した彼女は、手始めに一番近くにいた男の顎を蹴り上げた。

何が起きたかすら把握出来なかったのだろう。

男は、声すら上げずに卒倒した。


 七瀬の動きに一番速く反応した刺青だらけの男が、彼女の視界の端から、鈍色にぶいろに輝くナイフを振りかざす。

反応するなり、真っ直ぐ降りてくる男の、肘あたりに、そっとはたき落とすように手のひらを添える。

刺青男は、肘から不自然に床に倒れた。

まるで、床が彼を引きつけてしまったかのように。


 さっと身をかがめ、七瀬は男の手からナイフをもぎ取り、視線は正面の禿頭に向けたまま刺青男の鼻柱を蹴り上げた。

豚のような情けない悲鳴は、神経を研ぎ澄ませた七瀬の耳には届かない。


 ナイフを、禿頭の眉間に向けて投擲とうてきする。

反応は上々。紙一重で躱す。視線は七瀬から切れていない。

男が懐から取り出した段平だんびら(幅の広い刀)が、ぎらぎらと目を光らせる。

七瀬は初めに卒倒させた男の背中をヒールで踏みつけた。

屈強な身体はびくりと跳ね上がった。それとほぼ同時に、七瀬は床を滑るようにして、禿頭の足元に潜り込んだ。


 禿頭から見て、七瀬の動きは珍妙というほかなかった。彼は、今までこのような不自然な動きで暴れまわる人間を見たことがなかった。

七瀬の長い黒髪が揺れる。こめかみから耳に向かって垂れた一束の白髪が、尾を引くようにして残像を生む。


 白い線の到着点にあたりをつけて、ちょうど肘を畳んで下から真っ直ぐ切り上げるよう、禿頭が段平を振るう。

捉えた、と、確信していた。

だが刃は七瀬の頭を両断するどころか、それを握る男の腕ごとはじき返された。

あり得ない、と混乱するよりも先に、七瀬の手刀が男の頚椎に刺さり、男は意識を手放す。


 段平が床に突き刺さる寸前、七瀬はパンプスの爪先でそれを蹴り飛ばした。

ちょうど、道端に転がったボールを、持ち主の元に優しく蹴り返すように。

その動作とは裏腹に、刃は目にも留まらぬ速さで、引きつった表情を貼り付けたガタイの良い男の肩に深々と突き刺さる。

二度目の豚の悲鳴。当然七瀬の耳には入らない。


 五人目は、陰気な目つきをした爬虫類のような男だった。

腰を落とし、それらしい構えを取っている。

武芸に秀でていることは、七瀬の目から見ても明らかだ。だが――


「まっすぐぶつかる義理なんて私にはないのよ」


 七瀬の口角が上がる。

宙を穿うがつような鋭い拳の突きは、彼女が掌ではたく乾いた音と共に、その勢いを殺される。

二番目の男と同じように、爬虫類男は拳から床に吸い寄せられる。

七瀬は跳んでいた。男の頭上。小さな頭を踏み潰すように、彼女の踵が突き刺さった。


 一分にも満たない強襲が、終わる。


「大した備えもないからよっぽど自信があるのかと思ったけれど……」


 七瀬は首に纏わりついた長髪を払い、ブラウスの乱れを整える。

そして、倉科の方へと視線を移した。


 一切の感情を排除したような機械的な眼差しが、今の倉科にとっては脅威でしかなかった。

今からお前の喉仏を蹴り砕くことなど造作もないと、そのように脅されているようで、坂崎に茶をかけた時の余裕など、とうに消え失せていた。


「さっさと猿ども連れて帰りな。お山の大将」


 と、坂崎。

七瀬とは対照的に、彼の三白眼からは、怒りの感情が滲み出ていた。


「今日からこの店のケツ持ちはうちが務める。次同じようなことをやらかしたら、左頬にその三倍はでかいあざが出来ると思いな」


 それだけ言うと、険しかった坂崎の表情は崩れた。誰が見ても清々しいほどに、彼は勝ち誇っていた。


 倉科は殴られた右頬を庇うように押さえながら、革靴で床を強く踏み鳴らした。

「ぼさっとしやがって! さっさと起きろ!」だとか、小悪党らしい罵声を男衆に浴びせながら、彼は倒れた引き戸を跨いだ。

男衆は互いに傷を庇い合いながら、倉科に続く。

やがて、不自然に塗り潰したような静寂だけが残った。


「ってこった。俺と七瀬がこの店のケツ持ち。文句はねぇよなおっさん」


 とっ散らかった椅子とテーブルを元の位置に戻しながら、坂崎はカズミ老人を見ぬまま言い放つ。


「は、はぁ……」


 カズミからしてみれば願ったり叶ったりだが、そもそもそんな人材を雇う余裕があったならば、今回のようなことは起きなかったのだ。

莫大な金額を請求されるのではないかと、老人は気が気ではなかった。


「報酬はそうだな……このクソガキに毎日好きなデザートを食わせてやってくれ」


 そして、坂崎はカズミと目を合わせて破顔した。

カズミには、坂崎の姿が後光を帯びた菩薩のように見えた。


 七瀬は、坂崎のあまりにらしくない発言に、何か裏があるのではないかと邪推したが、まさに棚から牡丹餅といった出来事を前に、そんな不安はすぐに消し飛んだ。


「やっぱりあんたって最高のボスだわ!」


「けっ、調子のいいこと言いやがって。現金な女め」


 にたにたと笑みを浮かべたまま、七瀬は後ろ手に掴んだ一万円札の束を器用に指で数える。先ほどの騒ぎに乗じて、こっそり回収したものだ。つまり、倉科が坂崎に支払ったクリーニング代金。ちょうど十枚だった。


「私にとっては最高の褒め言葉よ」


 べえ、と舌を出して、七瀬は、クリップで留められた万札の束を、誰にも見えないようにスーツのポケットにしまった。

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