4.七瀬とチョコレートケーキ

(1)

 七瀬の一番の好物はチョコレートケーキだ。


 坂崎はそのことを知っていたが、実際に彼女がそれを食べるところを見たことが無い。

当然と言えば当然だ。

坂崎はあまりにも甘ったるいものは好きではなく、どちらかといえば彼の好みは煎餅やスナック菓子など、塩気の強いものに偏っている。

進んで洋菓子店に行くはずもなく、坂崎からすれば口が腫れてしまいそうなハイカラなケーキなど、買うはずがないのだ。


 樹楽街と帝都の中間に位置する羽根木はねぎ総合病院。

三階の廊下を、すれ違う者に目もくれず歩く坂崎の両の手には紙袋が提げられていた。

片方の中身は、桃花庵の主人カズミから譲り受けた七瀬の着替え。

もう片方は、カズミの協力を得て昨晩から作った不恰好なチョコレートケーキだ。


 チョコレートの甘ったるい香りは紙袋の中の紙箱越しに、くどいくらいに漂ってくる。

電車に揺られる中、ずっとこの匂いを嗅ぎ続けた坂崎は吐き気を催していた。


「おいクソガキ」


 受付で聞いた病室の引き戸を足で開くなり、坂崎はぶっきらぼうに七瀬を呼んだ。

どうやら窓から外を眺めて惚けていたらしく、七瀬は何度か瞬きをして、ようやく目に生気を宿した。


「なんてツラしてやがる」


 荷物を傍に置いて、窓際によりかかる。

そして七瀬が見ていたあたりに目を凝らした。


「何か見えるのか?」


「ほら、ずっと向こうのほう」


 荒れた道路を横切り、草っ原が広がる河川敷。

普段サイクリングロードとして利用されている道を挟むようにして、人だかりがある。

 七瀬が指差す方に目をやると、何やら大勢の人が、テントを組み立てているのが見えた。


「夏祭りか。樹楽街ももうすぐだったな」


 パイプ椅子を広げ、大股を開いて座り込む。

ジャケットから煙草を一本取り出すと、坂崎はそれを火をつけないまま咥えた。


「樹楽街の祭はどんな感じなの?」


「そりゃすげえよ。街のカタギが総出で、祭の為にあくせく働いてよ。夜の人間の中でも気の良い奴等はその日の為に生きてるんじゃねえかってくらい張り切るんだよ。そうだな……花火だ。花火がいいぞ。あほみたいにでかい花火がばんばん上がるんだ。向こう三日くらい目がちかちかするくらいな」


 坂崎の語彙では、具体的なイメージなど沸かない。

が、坂崎が楽しそうに身振り手振りを込めて語っているのが、七瀬にとってはおかしくて、胸がすっと軽くなってゆく気がした。


「見せてやるよ」


 七瀬の額を指で弾き、坂崎は窓際にだらしなく背を預けた。


「……ありがと」


 七瀬は額をさすり、しおらしく答える。


 やがて、沈黙が訪れた。

古い空調の排気音が断続的に鳴り、七瀬は時折聞こえるモスキート音に眉を顰める。

坂崎には聞こえていないらしい。

仏頂面を貼り付けたまま、せわしなく貧乏揺すりを続けている。

むず痒そうに立ち上がり、乱暴に紙袋の一つを引っ掴むと、何も言わずにそれを備え付けの冷蔵庫にしまった。


「なによそれ」


「カズミのおっちゃんが作ってくれたんだ。甘いもんが欲しくなったら食ってくれ、だとよ」


「嬉しいわ。お礼言っといてね」


「……おう、おう」


 咥えていた煙草を、結局火をつけないままくしゃくしゃに揉み潰し、ゴミ箱に投げる。

照れくさそうに鼻の下を擦り、坂崎は誤魔化すようにもう一つの紙袋を七瀬に手渡した。


「これ、着替え。これもカズミのおっちゃんからだ」


「……なんで女物の服なんか」


「娘がいたんだとよ。一昨年、街を出て帝都に行ったらしい」


「へえ」


「高校の事務員だって。教師になるのが夢だったけど頭が足りなかったとか言ってたな」


 七瀬は、黙って天井を仰いだ。

自分は中学を卒業してすぐに家を飛び出してしまったけれど、もしも高校に進学していたら、今頃どうなっていただろうか。

そんな風に、後悔など微塵も無いが、七瀬はありえたかもしれない可能性の糸を、頭の中で手繰ってゆく。


「高校、行かなくてよかったのか」


「なによ今更。お勉強なら、学校に行かなくても出来るわ」


 それが詭弁でしかないことを、七瀬は知っている。

それでも、自分のあらゆる可能性を潰してでも、七瀬は家を出たかった。


「将来やりたいこととか、無いのかよ」


 坂崎が珍しく言葉を選ぼうとしているのが分かったので、七瀬は同じように考え込む。


 何も考えずに家を飛び出して、結果として坂崎に拾われたが、七瀬はそれで良かったと思っている。

誰に拾われても、どこに流れ着いても、それなりに上手くやっていけただろうという自負があるが、坂崎が・・・自分を拾ってくれて、本当に良かったと、思っている。


 将来やりたいことなど、とっくに決まっているのだが、七瀬はどうしてもそれを、坂崎に打ち明けることが出来ない。


「……まぁいいや。まだ十五だし、そんなに焦ることもねえだろうよ」


 出来ることなら、このままずっと彼と一緒に。

貧乏暮らしにぶうぶうと文句を垂れながら、お互いに皮肉を言い合いながら、なんでもない一日が、気が遠くなるくらいずっと繰り返されて、そのようにして生きてゆけたら。


 そんなことを、七瀬が言えるはずもなかった。


 わざとらしく頬を膨らませ、そっぽ向く。

すっかり背中を向けてしまって、七瀬も、坂崎も、互いに言葉を交わすことを諦めていた。


「用心して一週間入院だってな。ちゃんと飯食えよ」


 坂崎は立ち上がり、ネクタイを締め直す。

なぜか辛気臭いこの空間から一秒でも早く抜け出して、まずは煙草を喫いたかった。


「冷蔵庫の、不味かったら無理に食わなくていいからな」


 七瀬はその言葉に違和感を覚え、坂崎の方へ振り返った。

しかしちょうど彼の後ろ姿は、ドアが閉ざされて、消えた。


 重い体を起こし、冷蔵庫を開く。

紙箱は丁寧に包装されていて、鍵でもかけているようだった。

蓋を開ける。

中身は、何の飾り気もない円形のチョコレートケーキだった。

決して綺麗な円ではなく、歪になっている。

一目見ただけで分かった。

こんな不恰好なケーキを、カズミが作るはずがない。


 蓋を閉めて、七瀬はそれを潰れないように、大事に抱きかかえた。


「ありがとう」


 2


 外に出るなり、坂崎は煙草に火をつけた。

一気に喫うとむせてしまうので、喉を気遣うように、ちびちびと喫う。


 昔、失せ物探しを依頼してきたパイプマニアの紳士が、煙草とは本来そうやって喫うものだと語っていたのを思い出した。


「なんっも違いが分からねえ」


 帰りは、バスを使うと決めていた。

バス停のベンチ。真ん中に我が物顔で腰掛ける坂崎に、寄り付こうとする者はいない。

近くで足を止めて談笑していた学生二人も、坂崎が煙草に火をつけたあたりで、苦々しい顔をしながら去ってしまった。


 備え付けの灰皿に、灰を落とす。

なぜか、彼は無性に苛立っていた。


「坂崎さん、でよろしいですか?」


 不意に名前を呼ばれ、坂崎は睨みつけるように振り返る。

彼が纏うそれよりも一つ上等なスーツを着込んだ男が、軍警の手帳を開いて立っていた。


「……人違いだ」


 煙草を灰皿の縁で押し潰し、坂崎は立ち上がる。

立ち去ろうとする彼の腕を、軍警の男が掴んだ。


「事をまどろっこしくするのは、あんたにとっても利口な選択とは言えないな」


 強面の軍警は下卑た笑みを浮かべた。

金歯が一つ、いやらしい輝きを放っている。


「くたばりやがれ」


 坂崎は男の足元に唾を吐き、腕を掴む手を振りほどいて両手を上げた。

しちめんどうなことになりそうだ。

直感でそう考えてしまう程度に、彼には心当たりが多過ぎた。

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