第3話

ヤチは、孤独だった。

心臓の裏側で、魂がギュッとねじれるような感じがして、

どうしようもなく胸が苦しい。

喉に空気の塊が詰まったような不快感を覚え、うまく息ができない。



「帰りたい…。」

ひどく塩辛い涙が、とめどなく、勝手に溢れてこぼれ落ちていく。


オロチ族。あるいはオロチ種。

ヤチが生まれ育った土地では、古くからそう呼ばれていた。

龍、ドラゴン、ヨルムンガンド…、地域や国、時代の変遷などによって

数多くの呼び名が存在するが、それらはすべて、ヒト族が勝手につけた通称だ。

ヤチにとってそうであるように、その種族が地上に現れた時代ときから

種族の名前など彼らには何の意味も持たない、どうでもいいものだ。

だが、ヒト族にとっては、自分たちとそれ以外の生き物を区別するために

きわめて重要なものであるらしい。

そもそも、ヒト族とオロチ族が別々の生き物と認識されるようになったのは

いつのことだったのだろう。



ヤチは、切り立つようにそびえる険しい山の中腹で、

雪解けの水がつくりだした滝壺にぷかぷかと身体を浮かべていた。

「これだから、海の水は嫌いだ…。」

独りごちながら、再び身体を反転させて、水中深くまで潜っていく。

皮膚細胞に残る海水を洗い流すために、先ほどからもう数十回もこうして

潜水を繰り返している。その姿は、ヒトの形体を成していない。

水中をゆらめくように泳ぐさまは、大蛇のように細長く見えるが、

それは光の屈折によるところが大きい。顔と手足はヒトの姿のそれと

さほど変わっていないように見える。ヒトが実際に見たことのある生き物、

あるいは太古の昔から想像上の怪物や神などとして描き残されてきた生き物、

そのどれとも違う姿形。ヒトの言葉ではどうやっても的確に形容しがたい

異形という他ないが、強いて言えば、水中を優雅に泳ぐその姿は

大きなイルカに似ているという感じだろうか。


あの、南の街からこの山の麓まで滑空するため、止むを得ず、

海の水を身体に取り込んだ。ヒトの文明に侵食された土地で清浄な水を

得ることは、今やほとんど不可能だ。ヒトが足を踏み入れない湿原もあるが、

その澱んで滞った水もすでに文明に汚染されているし、何よりあの地方の

湿原は、ワニや蛇など主に爬虫類の縄張りだ。ヤチが生まれ育った土地には、

肉食の大きな爬虫類はいなかった。

「ああいう爬虫類も苦手なんだよなあ…。」

他に餌が見つからなくて、どうしても栄養補給の必要に迫られている

切羽詰まった状況下にあっては、それらを捕食する時もあるが、

沼地でああいう凶暴な動物と格闘するのは、オロチの剛力を以ってしても

骨が折れる。長い年月をかけて湿原や沼地に適した生態へと進化した動物は、

当然、そのテリトリーでもっとも生存本能を発揮できる。

自然の生態系とはそういうものだ。

まあ、実のところ、そういう理屈は半分建前で、とにかくヤチは単純に

爬虫類が苦手なのだ。



とりあえず、決して美味くはないし、毒性のあるモノではあるが、ヒトを

1匹食したのだから、ある程度体力を回復させることはできるはずだ。

これでまた、ひと月程度はなんとか活動できるだろう。

今は、体細胞の塩分濃度を正常なバランスに戻して、体調を整えることだけを

考えればいい。


「うん、そろそろいい感じで塩分が抜けてきたみたいだな。痛みも痒みも

ほとんどなくなったし…。」

水面近くまで上がってきたヤチの身体を中心に、水が渦を巻き始めた。

向心力で周囲の水が一気にヤチの身体に引き寄せられたかと思うと、

次の瞬間、ヤチの身体は水柱とともに空中へと舞い上がり、

今度は逆の回転力で身体中から水が飛び散っているように見える。

ヤチはひらりと滝壺の外に降り立った。それから、疲れ果てた様子で、

仰向けに大の字でドンと倒れ込む。その姿は、ヒトの形体に戻っていた。

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