第2話
あの日から1週間が過ぎた。ジェイは、ヤチから預かったマントを、
盗られたり失くしたりしないようにどんな時も手放さずに、待っていた。
一日一日を気が遠くなるほど長く感じながら、
そわそわと落ち着かない気持ちで、ヤチを待っていた。
だが同時に、ヤチがもう二度とここに現れなければいい、という
後ろめたい願望もまた、日を追うごとに大きくなっていく。
あの時、ヤチは確かにジーを『食べる』と言った。
文字通りあんなクレイジーな奴に絡まれて、殺すと脅されてもなお、
平然と応じただけじゃない。まるでごく普通の世間話でもするように、
穏やかに、淡々とした口調で『お前を食べる』と言ったのだ。
ジェイはあの出来事を思い出したくなかった。
いや、必死で何か他のことを考えて、頭の中から追い出そうとしていた。
けれど、そうやって忘れようとすればするほど、記憶はより鮮明になり、
無意識に見聞きしたことまでもどんどん明確に思い出せるようになっていった。
「ヤチはジーを『食べる』と言った。だけど、その前にもっと妙なことを
言ってた。そう、思い出した。ヤチは、ジーのことを『魂が潰れてる』と
言ったんだ。あの言葉を聞いた瞬間、俺は怖くて怖くて動けなくなった。
魂が潰れている…。そんな言葉は初めて聞いた。なのに、どうしてだか、
それは死ぬより怖いことだと
ヤチ、教えてくれよ。魂が潰れるってどういうことなんだよ…」
頭ではヤチのことを考えないように努めているにもかかわらず、
ジェイは無意識のうちに心の中で繰り返しヤチに問いかけ続けていた。
ヤチは、ジェイの住む街から遠く離れた、海に面した南の街にいた。
富める者と貧しい者が高い壁で区分けされているのはどの街も同じだが、
この地方は太陽が高い位置を巡っているためか、狭い路地にも陽の光が
差し込んでくる。空気が乾燥していて、路地に霧が立ち込めることもなく、
昼間なら路地にたむろする人々の顔が遠くからでもよく見える。
「やあ、ドクター。」
ヤチは、路地のいちばん奥にある、ほんのわずかだが路地より開けたスペース、人々が“広場”と呼んでいる場所に座っている男に声をかけた。
差し込む陽光を避けて壁にもたれかかり、膝の上にボロボロの本を広げたまま、うつらうつらと半分眠っているようだ。ヤチの声にビクッと肩を揺らし、
その拍子に膝から本がすべり落ちる。寝ぼけ眼のまま、ひどく慌てふためいて
キョロキョロと辺りを見回すさまは、まるで逃げ場を探す小動物のようだ。
「相変わらずのんびりしてるね、ドクター。」
大きな身体を二つに折るように身を屈めて、すべり落ちた本を拾い上げながら、ヤチは改めてもう一度、笑いながら声をかける。
「やあ、君か。ずいぶんと久しぶりじゃないか。」
自分の傍に身を屈めたヤチの顔を間近で見て、ドクターと呼ばれた男はようやく状況を把握したようだった。
ヤチが拾い上げた本を手渡すと、ドクターはちょっとバツが悪そうに、
壁からずり落ちそうになっていた上半身を起こし、尻をずらしてしゃんと
座り直した。
「もう半年ぶりくらいか。いや、1年にはなるかな?」
ドクターがそう言うと、ヤチはいたずらっぽく答えた。
「あなたの半年も1年も、僕にとってはほとんど変わらないから、
よくわからないな。」
「そうか、そうだったな。だけど、私の時間は君ほどゆるやかではないんだよ。
もう少し、頻繁に顔を出してくれるとうれしいんだが…。」
ドクターは、至極真面目に、そして少し寂しそうに答えた。
「からかうような言い方をしてすまない。僕だって、唯一の理解者である
あなたと会って語り合うのはとても楽しいよ。でも、この土地は乾きすぎて
いるから、僕は長くとどまっていられない。体調が万全の時しか、来ることは
できないんだよ。」
ヤチは、ドクターの気持ちを受け取って、本当に申し訳なさそうにそう言った。
「いや、私のほうこそすまなかったね。前にもそう聞いていたのに、君を困らせる
ようなことを言って…。」
ドクターは、この辺りに住む住人たちとは明らかに違う言葉遣いをする。
身につけている服も、今はもうあちこち擦り切れて薄汚れているけれど、
もとは素材も仕立ても良い、いわゆる“金持ちの服”だ。
そう、彼は数年前まで壁の内側の、高い塔の住人だった。
彼が何故、壁の外側に『落ちてきた』のかは誰も知らない。
というより、物心ついた時からこの貧しい路地で生きている者たちの
ほとんどは、壁の内側のことになど何の興味もなかった。
たまに、ジェイのような人懐っこいタイプの子どもが、
無邪気な好奇心であれこれ聞いてくることもあったが、
言葉遣いも振る舞いも自分たちとはまったく違う、
何より話の内容自体が聞いたことのない単語ばかりで理解できないと
すぐに悟って、誰も親しくなろうとはしなかった。
「ところで…」とドクターは話を変えた。
「前に会った時より、少しは足取りがしっかりしているようだが、
顔色はあまりよくないね。また、何か変なものでも食べたのか?」
「ああ、魂が潰れたモノを1匹ね…。それで、毒消し草を探しに熱帯の森まで
行って来たから、その帰り道にドクターに会いに来たんだよ。」
「魂が潰れた者、か。以前、君が話してくれたことでそういう存在を
放置できないというのは充分理解したつもりだが、『食べる』以外に
それを排除する方法はないのかい?
毒消し草がなければ、君の体も毒されていくのだろう?」
ドクターは心配そうにヤチの顔を見つめ、その瞳を覗き込んだ。
「心配してくれるのはありがたいが、魂が潰れたヒトは僕とは違う種だ。
自然の命の循環に従って、命を奪うならそれを食さなければならない。
あなたたちの言葉では、食物連鎖、と言ったかな。
そこに例外は許されないよ。」
ヤチはため息まじりに答えた。
「それにね…」ヤチはまた少しいたずらっぽい目をして言った。
「ドクターがどんなにがんばっても、僕の瞳の中に魂の色を見ることは
できないよ。」
「いや、そんなつもりじゃあなくて…」
ドクターは慌てて言い訳をしながら、明らかにひどく落胆した様子でがっくりと肩を落とした。
「私はね、初めて君に出会った時、『魂という臓器が実在する』という話を
聞いて心底うれしかったんだ。それは、私が生涯のすべてをかけて証明しよう
としてきた研究テーマだったのだから。
世界中の学者どもに「どうだ、やっぱり私は正しかった!」と大声で叫んで
回りたかった。その研究のせいで私は学界から、いや、あの塔からも
追放されたというのに、まさかここで、壁の外の世界で真実に巡り会えるとは
思ってもみなかった。私にとっては、君との出会いこそがまさに奇跡であり、
再び生きる力をもらえたんだよ。」
ドクターが子どものように目を輝かせながら、前のめりになって熱弁を奮う姿を見つめながら、ヤチは小さく首を横に振った。
「ドクター、本当に気の毒だとは思うけれど、それはダメだ。
あなたは人体解剖の技術をもっと高めれば魂を見つけられる、そうして
何としても魂という臓器を見てみたいと考えているね。
だが、それは無理だよ。ヒトの技術や、ヒトの作り出す機械がどんなに
進化しても、ヒトが進化する可能性はもうない。
ヒトの知覚では、魂を認識することは決してできないんだよ。」
ヤチの言葉を聞いて、ドクターはギョッとした。
ゾッとした、という方が正しいかもしれない。
「今、彼は私の心の声に返答した…。心を、読んだのか?」
ヤチと出会って、何度かさまざまな学術的議論をした。
自分よりはるかに優れた学者と話しているような高揚感を覚え、
研究者だった時代に戻ったような錯覚に陥ることさえあった。
だが、目の前にいるこの青年は、
人間の姿をしていてもやはり人間とは違う別の生き物なのだ。
ヤチは、ドクターの表情にかすかな恐怖を見て取った。
「すまない。やはり、あなたを怖がらせてしまった。あなたなら、すべてを
あるがままに理解してくれると過剰な期待をしていたのかもしれない。
また機会をくれれば、もっといろんなことをきちんと説明させてほしい。
今日はもう行くよ…。」
ヤチは、強い日差しの中へと小走りに去って行き、
日陰に馴染んだドクターの目はその後ろ姿さえ捉えることができなかった。
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