オロチノ — 八祐《ヤチ》の章 —

靄生 慧

第1話


「お前、オロチノって知ってるか? いや、オロチノチだったかな?」

短く刈り込んだ髪を赤と青のストライプに染めた、背の高い少年が唐突に

切り出した。

「オロチノ? 何だそれ、食いモンか?」

小柄な体をいっそう小さくするように背中を丸めてしゃがみこんだやせっぽちの少年が、ため息を吐き出すように素っ気なく答えた。

その気の抜けた口調とは裏腹に、視線だけをはるか頭上の相棒の顔に向けた

少年の瞳には、食事にありつけるかもというかすかな期待が見て取れる。


「食いモンじゃねえよ、変な期待すんな! ホントにバカだなあ、お前は。」

背の高い少年ジェイはふんと鼻で笑うような口調で言葉を続けたが、

その顔には、憐れみと悲しみが入り交じった複雑な表情が浮かんでいた。

「なんだよ、俺よりちょっとでかくて年上だからって偉そうに

 見下ろしてんじゃねえよ。そのオロチノってのが何だっていうんだ。

 どうでもいい話なら聞かねえぞ。ただでさえ空きっ腹で寒さが

 身にしみるってのに、しゃべると余計に腹が減るだろ。」

小柄な方の少年アッシュは、バカにされたのが癪に障ったのか、

あるいは期待した気持ちを見透かされたのが恥ずかしかったのか、

突っかかるように言い返す。


底冷えのする石畳の路地に、重く垂れこめた雲から濃い霧が降りてきて、

じっとりと体にまとわりつく雨粒に変わっていく。

冷たい霧雨とともに骨身にまで染み込んでくるような寒さは、

確かにアッシュの言葉通り、やせ細った少年たちにはひどく堪える。


「腹の足しにはならないけど、ちょっとは寒さを忘れられるすげえ話だぜ。

 いいか、聞いて驚くなよ。オロチノっていうのはな…」

ジェイが白い息を吐きながら勢い込んで話を続けようとしたその時、

視界を遮る濃霧の中から、不意にゆらりと一人の青年が姿を現した。

2メートルはゆうに超えているであろう長身を、

頭から足元まですっぽりと分厚い皮のマントで包んでいる。

両腕でマントを体に巻きつけて全身を覆い隠すようにしているせいで

体格や肌の色はよく分からないが、肩幅は広く、腕が異様に長いことは

見て取れる。フードの影になって顔もよく見えないが、顔色は青白い、

というより蒼いという表現がふさわしい、これまた見たこともないような

奇妙な色だ。


ゴワゴワした皮のマントは、見るからに手作りで、牛や馬、羊などさまざまな

動物の皮をつぎはぎにしたもののようだ。

獣の臭いがツンと鼻をつくが、さまざまな皮の色が多彩な光沢を放ち、

見ようによっては見事なパッチワーク仕立ての高級品にも見えるから不思議だ。


「おっ、噂をすれば影、だ。」ジェイは親しげに青年に声をかけた。

「お〜い、お前。えっと、ヤチだったっけ? どこ行ってたんだよ。ちょうど今、お前から聞いた話を俺の連れに聞かせてやろうとしてたんだぜ。」


ヤチと呼ばれた青年は、少し身を屈めるようにしてジェイに顔を向け、

無言のままわずかに微笑んだ。

身を屈めた拍子にフードがずれて、しゃがみこんでいるアッシュにも、

ようやく青年の顔がはっきり見えた。

体格も肌の色も異様ではあるが、ほっそりとしたその顔立ちは、

年端のいかない少年から見ても、男性の凛々しさと女性の優美さの両方を

併せ持つようで、完璧なくらい整っていて美しいとわかる。

「お前もここに座れよ。少しは雨がしのげるぜ。」

そう言って、ジェイは小さな石段にしゃがみこんでいるアッシュの脇腹を

足先で軽く押しやり、一人分のスペースを空けさせた。


金持ち連中が住んでいる塔のような建物と路地裏の貧民を隔てる明確な境界線のようにそびえ立つ、堅牢な石造りの高い壁のところどころにある小さな裏口から突き出た階段とその傍らにあるゴミ置き場、そこだけが多少なりとも雨露をしのげる、少年たちにとって唯一のシェルターだ。


「ありがとう。じゃあお言葉に甘えて…」

青年がそう言って石段に腰掛けようとさらに腰を屈めた瞬間、霧の中からぬっとまた別の誰かの手が現れて、青年のマントの裾をぐいと摑んだ。


「そのマント、俺に寄こしな。」

マントを摑んだ手の先に、ヤチほど背は高くないが、がっしりとした体格の

大男の姿が浮かびあがる。

貧民街では珍しく、金属の装飾品を首や腕にジャラジャラと幾つもぶら下げ、

頬と顎に大きな傷がある典型的な悪人ヅラをしている。威嚇するように

がなり立てるしゃがれ声は、ジェイとアッシュにもよく聞き取れなかった。


「何を言っているのかわからない。君はこのマントが欲しいのか?」

ヤチは、まったく動じる様子もなく、穏やかに聞き返す。

「申し訳ないがこれはあげられないよ。雨を避けるために、僕にはどうしても

 必要なものなんだ。」

「はあ? お前、こんなところで何を気取ってやがる。ムカついたから、お前を

 殺してからそいつをもらってくことにするぜ。」

男はヤチにぐっと顔を近づけて、さらに凄んでみせた。

その男の顔を見た瞬間、ジェイは反射的に悲鳴のような声をあげた。

「ヤチ、逃げろ! そいつ、ジーだ、クレイGだ‼ マジで殺されるぞ。」


それを聞いたヤチは、ジェイとアッシュを自分の後ろに押しやりながら、

それでも平然と男の顔を覗き込んだ。

「ああ、その目。そうかお前、魂が潰れてしまってるな。今までに何人殺した?

もう、言葉も通じないわけか。お前のようなモノを食べるのは気が進まないが、他に解決策はなさそうだな…。」


その言葉に、クレイGと呼ばれた男は激昂し、ポケットからナイフを取り出して

ヤチの首筋に突きつけた。

ジェイとアッシュは、男の手に光るナイフと、その前にヤチが言い放った言葉の両方に驚愕し、身動きすらできず固まっていた。


「お前、今、俺を喰うって言ったか? こいつ、俺よりイかれてやがる。」

さらにがなり立てながら、男は自分の目を見つめたままのヤチの瞳に恐怖は

おろか敵意も怒りもなく、ひとかけらの感情さえ見出せないことに気づいた。

「俺は本当に喰われる…。」それは瞬間的に本能が察知した生命の危機だった。男は、ナイフを握った指から力が抜けて全身が勝手にガタガタと震えだすのを

感じた。


ヤチは、ナイフを握った男の手首を左手で掴み、羽織っていたマントを右手で

するりと脱ぎ落とすと、背後で縮こまっているジェイにやさしく声をかけた。

「このマントは、本当に大事なものなんだ。ジェイ、後で必ず取りに来るから

預かっていてくれないか。このマントを持って、二人であの曲がり角まで走って行きなさい。角の向こうに隠れて、決してこの路地を覗き込んではいけないよ。危ないからね。」


ジェイはもう、ヤチが何を言っているのかもほとんどわからなかった。というより、彼もまた本能的な恐怖に支配され、その言葉の意味やこれから何が起こるのかを考える余力が残っていなかったのだ。ただ機械的に、ヤチの言葉に従ってマントを拾い上げ、アッシュの腕を掴んで石段を飛び降り、一目散に曲がり角まで

走った。


その時、たった今まで霧のようだった雨が突然大粒の雨に変わり、

瞬く間にすべての音をかき消すような豪雨となった。

角を曲がり切るより少し前に、ジェイはちらりとヤチの方を振り返った。

その一瞬に、ジェイは信じられない光景を見た。


まるでそこに突如として台風が発生したかのように、

ヤチが立っている場所を中心に凄まじい風が渦を巻いている。

雨粒はすべてその風に吸い寄せられ、渦の真ん中には巨大な水柱が

空に駆け上がるように立ち昇っていく。

いや、水柱が空に昇っているのではない。

水柱の中を、見たこともない異様な黒い影、だが確かに生き物としか思えない

何かが螺旋を描くように天空へと駆け上がっていく。


マントとアッシュを抱きかかえるようにして、ジェイが曲がり角の向こうへ

飛び込むと、そこはまるで違う世界のように、雨も風も、霧さえもない

乾いた路地だった。

けれど、背後ではまだ、間違いなく強風と豪雨が荒れ狂っている音がする。


2分か3分か、実際にはもっと短い時間だったのかもしれないが、

ジェイには時間が止まったように長く、また同時に一瞬のようにも感じられた。そんな不思議な感覚に支配された時間が不意に途切れ、

向こうの路地の轟音がピタリと止んだ。

恐る恐る、ジェイが曲がり角から頭半分だけそっと覗かせて様子を窺うと、

路地には誰もいなかった。

ヤチが立っていた場所に大きな水たまりがひとつ、あるのはそれだけだ。

ヤチだけでなく、クレイGの姿も見当たらない。

石壁に遮られたはるか上方の狭い空を見上げると、

黒い雨雲が長い尾を引きながら、ものすごい速さで流れて消えていった。



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