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 本田和宏と杉原百合子は、今年はじめに上野で再会し、それ以来ときどき電話で話すようになった。それについて、本田は「百合子に未練がありました」と言い、百合子は「本田はどうせ金目当てだと思いましたが、私も寂しかったので・・・」と言っている。

 4月はじめには、本田が「亭主と別れろ」と迫り、百合子が「今さら別れられない」という話になった。本田は「百合子は、亭主の遺産が入るまで別れるつもりはないようでした」と言い、百合子は「スナック嬢のヒモをやってるような男が、今さら私に言い寄ってきた本心をずっと疑ってました」と言うが、精二の眼を盗んだ電話の逢引きはその後も続いた。そして6月半ば、本田は一度、百合子の亭主に談判してやると言い出した。

「あの爺さんは、自分の面倒を見させる家政婦代わりの若い女を欲しかっただけの、いやらしい年寄りだったから、百合子がかわいそうだと思ったんです」

 杉原精二が本当にそんな亭主だったかどうかについては、百合子は黙秘している。

 しかし、談判してやるとしつこく言う本田に、百合子は根負けし結局、亭主の散歩コースと時間を教えた。「本当に談判に行くとは思っていませんでした」という。

 事件のあった7月17日の夜、本田は酔った勢いで愛人の早紀とケンカをした。早紀いわく「本田が百合子に電話しているのを知ってたから」頭に来て、痴話ゲンカになったということだ。

 早紀とのケンカでカッとなった本田は午後9時ごろ、荻窪のマンションを飛び出し、電車に乗った。「百合子に会いたかったが、精二がいるから会えないと思うと、今夜こそ談判してやると思い」、東京で電車を乗り換えて上野駅に向かった。上野に着いた時刻は覚えていない。

 傘を持っていなかったので、駅から上野公園の現場まで濡れて歩くうちに、気分が悪くなってきた。じとじと雨の降り続く公園に人影はなく、こんな天気の日に本当に精二が来るのかと思い始めると無性にイライラし、ますます精二が憎くなってきた。ぶらぶらと周囲をうろつき、不忍池のほとりで凶器となる石を拾う。

 傘を差した男の姿が見えたので、遊歩道の端に寄って、男が近づいてくるのを待った。

 本田は精二の顔を知らなかったので、男に近づき、「杉原精二さんか」と尋ねた。男がそうだと答えた。本田が「百合子の前の亭主だ。話がある」と言うと、精二は驚いた顔をしていたが、すぐに気の強いところを見せて「あんたのことは百合子から全部聞いている。稼ぎもないヒモのくせに何を言うか。警察を呼ぶぞ」と怒鳴り始めた。

「稼ぎもないヒモという言葉を、百合子を家政婦代わりにするようなじじいから浴びせられるのが許せませんでした」

 本田は「このやろう」と怒鳴り、石を持ち上げ、正面から頭に殴りつけた。精二は植え込みの中ほどに倒れ、うんうん唸っている。本田は顔を見られているととっさに考え、精二の背中にのしかかって頭に石を何度も打ちつけた。精二はすぐに動かなくなったが、死んだのかどうか確かめなかった。頭がぼうっとなってしまったからだ。

 一方、早紀は本田が百合子に会うのではないかと思い、本田がマンションを飛び出した後、すっとあとを尾けてきていた。そして公園内の遊歩道の、少し離れたところから見ていると、思いがけない揉みあいを目撃した。早紀は、本田が誰かを殴ってケガをさせたのではないかと心配になり、急いで駆けつけた。

 見ると、植え込みの中に老人が伏している。早紀はそのとき、無我夢中で老人に駆け寄り、「しっかりして」と声をかけた。反応がないので死んでいると気が付いたとき、涙が溢れた。「田舎のおじいちゃんのことを突然、思い出しました」ということだ。

 怖いとか、逃げなければと思うより先に、早紀は本田が着けていた軍手を借り、遺体を持ち上げ、近くにあったベンチの上に仰向けに横たえた。そして、遺体の乱れた衣服を丁寧に整えた。

「なぜ、そんなことをしたのかはわかりません。たぶん、もうこれで何もかも終わりだという気がしたのでしょう。だから、変に落ち着いていたのだと思います。本田はぶるぶる震えているだけでした」

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