[16]

 湯気が出そうな頭を鎮めるために、タバコのニコチンを流し込みながら、真壁はひたすら待った。2人のいる雑居ビルは、金物屋の正面よりやや左手にあった。

 全身びしょ濡れになった体に、急に寒気が走る。地団駄を踏みながら、ふと脳裏に新宿西署で歌舞伎町交番に就いていた頃を思い出していた。そのとき、当時の上司から吉河組の事務所が金町にあることを聞かされたのだ。

 いったん本部に確認の電話をするべきか、自分が戻ろうかと考えているうちに、雑居ビルの入口から百合子がひとりで出てきた。ハンドバックから折りたたみ式の黒い傘を取り出し、それを差して、雨が降りしきる通りを歩き出した。ビニール傘を喫茶店に置いてきた自分を、うらめしく思った。

 濡れたままでも追うか、それともまだ店にいる本田を待つか。考える間もなく、本田が地上へ飛び出してきた。百合子の方はもう5メートルほど駅に向かって進んでいる。ビニール傘を差し、本田は駅に向かって進んでいる百合子を追って駆け出すと、その背に手を伸ばした。

 百合子はいやという身振りで男の手を払い、歩き続ける。本田は今度、百合子の手をつかむ。それまで、2人がビルを出てきてから、ほんの10秒。

 ケンカかと眼をみはっていると、本田は百合子の手を引き寄せて肩を抱き、百合子は身体を預ける格好で2人そろって立ち止まった。本田の口元は笑っていた。百合子の表情は見えなかったが、腰がしなを作っている。本田は百合子の肩を抱いたまま、車道に向かって手を挙げる。タクシーがウィンカーを出して近寄ってくる。そこまででも、やっと30秒足らず。

 白けたような気分と疲労から、真壁が路上につばを吐いたときだった。さっきまで2人がいた雑居ビルの入口に、いつの間にか女がひとり立っていた。

 女は10メートル先の道端で近寄ってくるタクシーを待っている、百合子と本田の方を向いていた。黒っぽいコートに黒いスラックスという恰好だと無意識に思った途端、女は2人に向かって駆け出した。

 真壁は眼の前を横切った黒いコートの袖口から、何かが突き出しているのを見た。薄暗い外灯に反射して光り、尖っているものだった。それが何なのか考える前に、とっさに足が動いた。

「おい、待て!」

 何歩か駆け出し、真壁が黒いコートの背後に食らいついたとたん、誰かが「きゃあ!」と叫ぶのを聞いた。

 真壁はなぎ倒した相手と一緒に濡れた路面に転がり、腕をねじ上げて押さえ込んだ。下敷きにした女の振り乱した髪の間から、青白い細い顔が覗いていた。10日ほど前、ベランダで洗濯物を干していた女とは別人のような、早紀だった。

 ハッと真壁が顔を上げると、本田が百合子の手を引っ張って走っていく。ネオン街のビルの角から、2人組の警官が駆け寄ってくる。

「おい!その男女を捕まえろ!」

 警官に向かって夢中で叫びながら、真壁は頭の中でガンガン鳴っている警報を聞いた。早紀は初めからあのバーにいて、ずっと百合子と本田の逢引きを見ていたのだ。一度はこの眼で店の中を見ておきながら、百合子と本田に気を取られて、早紀の姿に気づかなかったとは。

 そのとき、不意に早紀が体を動かし、真壁の胴に強烈な肘鉄を食らわせた。思いがけない衝撃を受けた真壁は早紀の手を放してしまい、無様にしりもちを付いた。

「殺してやる!」

 早紀が恐ろしい声を上げながら、2人に向かって駆け出していく。「くそっ!」と真壁はひとつ悪態をつき、起き上がろうとしたとき、驚いたことに周囲のビルから恰幅の良い男たちが飛び出してきて、たちまち真壁と早紀を取り押さえた。頭上から誰かに怒鳴りつけられた。

「ワレェ、どこの組のモンじゃ!」

「バカヤロ、俺は警官だ!」

 地面に押さえつけられた真壁は、ただもがくことしかできなかった。

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