[15]
午後11時を回った。真壁は雑居ビルの脇を通る細い路地から、百合子と本田が出てくるであろう入口を睨み続けていた。
最初にバーで見た、百合子と本田の表情を何度も思い浮かべて反芻してみた。ひっかかるのは、世間の目をはばかる逢引きのひそやかな喜びに満ちた輝きが、どちらの眼にもなかったことだ。
2人の間にあるのは甘い話ではない。真壁はそう直感した。たぶん、3回の訪問につながる何事かが話し合われているのだろう。遺産目当てに本田がよりを戻そうとしているのか、あるいは百合子の方がそう迫っているのか。
また本田の顔を見たとき、荻窪での聞き込みの帰り際、マンションのベランダで洗濯物を干していた早紀の仕草が瞼に浮かんだ。
そのとき、早紀が干していたのは、本田の下着やパジャマだった。いずれもきれいに手でしわを伸ばし、ロープに吊るしていく。アンダーシャツ1枚干すのに、洗濯バサミを三つも使っていた。その手つきが瞼によみがえる。
ともあれ、真壁が今夜、本田和宏の姿を見たときにとっさに考えたのは、百合子への未練と、その本田を睨んでいた木暮早紀の眼つきと、洗濯物を干していた早紀の手つきの3つだった。それらの3つが一度につながり、そこに本田が3回百合子の家を訪ねた事実と、早紀が失踪した事実が加わって、完結した輪ができかけていた。
少なくとも2つの条件さえそろえば、本田と早紀は杉原精二殺害に関わっていた「かも知れない」というところまで、来たのだった。すなわち、条件の1つは7月17日から18日にかけての事件当夜に、本田と早紀にアリバイがないこと。現時点では、17日は日曜日であり、早紀の勤め先の「エルム」が休みだったことが分かっている。
もう1つの条件は、本田たちが事前に、被害者の散歩コースと散歩に出る時刻を知っていたこと。これは事前に下見すれば、把握することは十分に可能だ。
しかし、現実の捜査の観点からすれば、本田と早紀は動機の点で今ひとつ曖昧なのは、真壁も認めた。三角関係は状況証拠でしかないし、遺体の衣服を整えたのが早紀だというのは、あくまで遠い推測にすぎなかった。
そして、被害者の頬に付着していた冬緑油という唯一の物証が、本田と早紀が杉原精二殺害に関わっていた可能性をさらに小さくしていた。仮に犯行を卓郎になすりつけようとしてやったことだとしても、卓郎が若年性のリウマチを患っていて冬緑油を使っていることを知ってなければならない。探偵でも雇えば把握することは可能だろうが、本田と早紀がそこまでする動機が真壁には考えられなかった。
何本目かのタバコを口にくわえ、マッチを擦る。吸い口に火を当てようとした瞬間、突然じゅっと煙と音を立てて、マッチの火が消えた。何事かと天を仰ぐと、さっきまで止んでいたはずの雨がまた降り出した。それも、バケツをひっくり返したような大雨だった。
真壁は「チクショウ!」と大声で悪態をつき、ビルの隙間から飛び出した。通りを渡り、すでに店じまいをした金物屋のひさしに逃げ込んだ。
上着の懐に入れてあった携帯が震え出す。幸いにも、濡れなかったようだ。木暮早紀のマンションの様子を見に行った須藤かと思い、電話に出た。相手は富樫だった。
「吉河組の事務所でガサ入れがあるみたいなんだが、何か聞いてないか?」
「吉河組?ガサ入れ?」
富樫の口から飛び出す物騒な単語に、真壁はとっさについていけなかった。「知るか!」と怒鳴り返し、携帯を切った。
バーにいる2人は、まだ出てこない。
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