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 午後7時も5分すぎ、真壁は慌ててカウンターの奥へ声を放った。

「すいません、テレビつけてくれませんか。NHKのニュースを」

 ニュース番組はすでに始まっていた。国会の法案審議やユーロ圏の金融危機と続き、最後の方で『台東区池之端の上野公園内で・・・』とアナウンサーが原稿を読み始めた。

『不動産会社経営杉原精二さんが殺害された事件で、上野南署の特別捜査本部は本日午後5時、精二さんの息子の卓郎容疑者40歳を殺人と死体遺棄の疑いで逮捕しました』

 今朝、上野南署に引っ張られたときの卓郎の姿が映った。ネクタイは着けず、襟のはだけた白いワイシャツ姿の卓郎はカメラの放列に向かって、酔っぱらっているらしい頭をふらふらと揺すって両脇を刑事2人に抱えられていた。

『卓郎容疑者はサラ金で金を借りては競馬に注ぎ込み、平成10年夏、精二さんの会社の金4000万を使い込んで会社を解雇されました。その後も精二さんにたびたび金をせびるなどしていたところ、7月17日の夜、精二さんに借金を断られて腹が立ち、精二さんを殺そうと思ったと供述しているとのことです』

 どうやって殺したのか。殺した時の遺体の姿勢はどうだったのかなど、詳しい供述は取れたのだろうか。

 逮捕された卓郎は、もう拘置所に移送になったのかどうか。電話を掛けるか、真壁は迷い、結局携帯に伸びかけた手はそのまま引っ込んでしまった。「どうだった?」と誰かに聞いてみたところで、どうせ慌しいからろくな説明は返ってこない。

 そうしてさらに半時間ほど経った。自分が何を待っているのか、とうの昔にわからなくなり、もういいと何度も思った。ただ何ひとつ進展しないまま、帰るに帰れない。そんな状態だった。

 真壁は3杯目の苦いアイスコーヒーをちびちび啜りながら、本郷通りを走る車の灯火と、その向こうの百合子の家の玄関を眺め続けた。

 午後8時も10分を過ぎたころ、家の玄関が開いた。ハッとして、真壁は眼を凝らした。百合子が出て来た。買い物から帰ってきた時と、服装が違う。濃い色のスーツとパンプス。ハンドバックを持っている。外出向きの服装に見えた。

 真壁は取るものもとりあえず、腰を上げた。外はすでに雨が上がっていたので、ビニール傘は置いていった。距離を空けて、尾行を始める。

 スーツ姿の百合子は初めて見た。言問通りに入り、帝都大学の敷地を通り抜けるその後ろ姿は、髪型が変わって別人のようだ。ひっつめていた黒髪を短く切ってパーマをかけている。10歳ぐらいは若く見える。スカートの裾を翻して進むパンプスの足は軽快な感じがあり、歩調も早い。

 誰かに会いに行く足取りだった。人目を気にする様子もなく、帰宅を急ぐ勤め人たちとすれ違いながら、根津一丁目の交差点で地下鉄の駅へと階段を下りて行った。

 百合子は改札口を通り、階段をまた下がって北千住方面のホームへ向かった。真壁はちらりと腕時計に眼をやった。時刻は、午後8時39分。

 万一の場合に備えて、尾行にはもう1人いた方がいいに決まっている。頼めるのは須藤しかいないが、まだ署に残っているのだろうか。そんなことを考えている暇はないと思い直し、真壁は携帯電話を取り出した。

 須藤が電話に出たのは10秒足らずの間だったが、真壁には3分以上待たされたような気分だった。のんびりとした口調の須藤の後ろから、慰労会の喧騒が聞こえる。

「姿が見えないから帰ったんじゃないかと、小野寺さんと話してたとこだよ」

 電車がホームに入ってきた轟音に苛立ちが混じり合い、真壁は声を張り上げた。

「ちょっと、俺と付き合え。あと15分か20分、そこで待ってろ。また電話するから、すぐ飛び出せるようにしとけ、いいな!」

「ええ?」

 須藤の驚いたような声が聞こえたところで、真壁は電話を切った。百合子が電車に乗り込んでいくのを眼で追いながら、真壁も走った。

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