[11]
「やっぱりここにいたな」
路上で出し抜けに掛けられた声に、真壁はぎょっと顔を巡らせる。街灯の薄明かりの下、ピンクのビードルの屋根に肘をつき、見馴れた顔がイタズラをたくらむ悪童のように笑っていた。
「何だ、こんなところで。驚かすな」
富樫誠幸。
全国紙の東都日報に勤める記者で、真壁が上野南署刑事課に配属された頃から警視庁捜査一課の「番記者」を務めていた。2人は大学の山岳部で同じ釜の飯を食った仲でもあった。
「百合子さんは留守のようだね」
家は玄関の格子戸が閉まり、外灯もついていなかった。この1か月、ほとんど雨戸が閉まったままの2階の窓のベランダに、垂れ下がった洗濯物のロープが1本、ぶらぶらと揺れている。
「やっぱりお前、俺の手帳を勝手に・・・」と真壁が声を荒げると、富樫は「まぁまぁ、無粋なことは言わないで」などと言いつつ、通りの向かい側にある喫茶店「セーヌ」に真壁を追いやった。ガラス越しに家が観察できるテーブル席に座り、真壁はアイスコーヒー、富樫はジュースを注文した。
ジュースをひと口ふくみ、富樫は「子どもができてからこういうのがおいしくてね」と、自嘲気味に笑った。一方の真壁はというと、ファーストフード店が出す安物とは違う本格的なコーヒーの芳香に頭の芯がくらりときていた。
「で、どうなの?」
「それはコッチの台詞だ。卓郎は認めてるのか?」
「殺意はね。でも、手はかけてないって」
「微妙だな」
「またまた、そんなこと言って。卓郎が犯人だとは微塵にも思ってないくせに」
「あのなぁ・・・」真壁は苦笑を浮かべる。「俺の手帳が本筋だと思ったら、大間違いだ」
「ほんとにそうなのかなぁ」
甘いジュースを飲みながら、優雅に笑う富樫は何日か前に、神保町のバー「モンブラン」で一緒に飲んでいたすきに、珍しく酔いつぶれた真壁の上着から手帳を抜き取って中身を読んでいたのだ。
しかし、そんな友人の所業がどこか憎めないのは、百合子が男と共謀して亭主を殺害したにしろ、亭主を捜しに行って遺体を見つけたにしろ、乱れた遺体の衣服を丁寧に整えたのが百合子かどうかについては、真壁は実は疑問に持っていたからだった。
半コートを遺体の背の下から引き出して伸ばしたのは、普段からそういう仕草が身についている人間の仕業だ。すなわち、丁寧で几帳面で細かい気配りをする者が、不必要と思える場面でとっさに遺体の衣服を整えたのだろう。
ところが、百合子という女が、どちらかと言えばがさつだと思えるのは、2階のベランダに垂れ下がったロープ1本にも現れていた。玄関周りも掃除は行き届いていない。ゴミ箱あさりで分かったことだが、生ゴミと不燃ゴミが一緒に袋に突っ込んである。お供えの届け物の包み紙は、四方八方やぶれた状態でくしゃくしゃに丸めてある。
百合子が遺体に何がしかの気持ちを懐いたとしても、とっさの場面で衣服を整えるべく手が動いたかどうか、真壁は今ひとつ自信が持てなかった。事件の周辺にいる女といえば、百合子しかいないから今日まで追ってきたが、本部で何も言い出せなかったのは、そういうところでひっかかったためであった。
「そうだ・・・中野の警官殺しで、何かないか?」
「中野?」富樫は頭をひねった。「いや、特に何も聞いてないけど」
「まだ否認してるのか?」
「そうだと思うが・・・何かあるの?」
真壁は「気になっただけだ」と言って話を打ち切ったが、内心はちょっとざわついていた。逮捕したからには、決定的な証拠を特捜本部が掴んだに違いないはずだが、今まで苦戦しているところを見ると、状況証拠のみで逮捕に踏み切ったのか。
午後7時前、富樫がレシートを持って「おごらせてもらうよ」と言い、颯爽とピンクのビードルを駆って出て行った後も、真壁は中野の強盗について考えを巡らせていた。
犯人が盗んだものが、現金が2万弱と薬。それも軟膏だ。現金は分かるし、薬もシャブのように依存性のあるものならまだしも、そんなものが街の薬屋に置いてあるとは思えない。とっさに手帳を取り出し、まっさらなページに「なぜ軟膏なのか?」と赤ペンで書きつけた。
その直後、スーパーの袋を提げた百合子が本郷通りの歩道に現れ、玄関の鍵を開けて家の中に入っていった。3日ほど前にも姿を見ていたから分かったのだが、髪型が変わっている。美容院へ行ったのだろうか。服装の方は、いつもと同じ地味な色合いのカーディガンとスカート。
スーパーの袋の中身は、夕食の支度か。今日はもう外出しないのか。
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