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午後4時半すぎ、真壁は西片六丁目に立っていた。戦後すぐに本郷通り沿いに立った古いしもた屋風の家の玄関に、杉原の表札がかかっている。小雨から曇天にかわり、ビニール傘は手にかけておいた。
死んだ杉原精二は会社を大きくすることに金と時間を注ぎ込み、身嗜みに気をつかっていたほかは、私生活はごく慎ましやかだった。先妻に先立たれて10年、手伝いも雇わず独り暮らしを続けていたとき、駅前のスーパーのレジで働いていた百合子を見初めて1年間口説き続け、再婚を果たした。
精二が気に入ったのは、百合子の地味で質素な性格だったという。近所の評判は異口同音に、「慎ましやかに暮らしていた」というもので、エプロン姿で買い物かごを提げ、毎夕商店街に現れる百合子の姿はどこから見ても平凡な奥さんだった。
秋田から出てきてしばらくは実家や親類との付き合いはあったが、二度も結婚に失敗してからは郷里に帰らなくなった。秋田の両親はすでに死亡。仙台にいる兄弟とは音信不通。精二の葬儀に百合子の係累の姿はなく、葬儀後も親類が出入りした様子はない。
5年前まで勤めていたスーパーの同僚の話では、友人もなかったという。杉原卓郎が会社で不祥事を起こしてからは精二も付き合いをしなくなり、盆や正月などは、夫婦で温泉旅行に出かけることが多かった。精二が脳卒中で倒れたときは、百合子がずっと病院で付き添い、退院してからは散歩に出る以外に、夫婦ともあまり世間に姿を見せなくなった。
そういう話のどこにも、特に奇異な点はないが、外から窺えない人の心の部分には、まだまだ分からないところがあった。6年前、68にもなっていた精二が34の女を見初めた気持ち。スーパーでひとり買い物をしていた老人に、百合子がやさしくしたのだろうか。ろくでなしの息子に裏切られた傷心を、若い女に癒してもらい、息子の代わりに遺産をやろうと思ったのか。
百合子にしても、三度目の結婚で30も歳の離れた老人を選んだ本当の理由は何なのか。いくら性格が地味だといっても、老人相手の日々の生活の、何が面白くて生きてきたのか。肉体的にはまだまだ女盛りの百合子は、性生活はどうしていたのか。
年老いた亭主が亡くなり、1億以上の遺産を手に入れた今、百合子はこれからどうするつもりなのか。それを考えると、このまま未亡人で終わるという想像は難しい。
美貌とまではいかずとも、色白のふっくらした百合子の顔は、かなり男好きがする。亭主のいなくなった家に招き入れて一緒に寿司を食うような男がいても、大いにありそうな話だ。普通なら、そういう男がいたらすぐに捜査陣の知るところとなるが、今回は早い段階で容疑が卓郎に集中した分、その他の人間の身辺調査がおろそかになり、百合子の男は網の目からこぼれてしまったのだ。
百合子が遺産目当てに男と共謀して亭主を殺害したという可能性は、全く無いとは言い切れない。特に、被害者の頬に付着していた冬緑油という唯一の物証は、本ボシが犯行を卓郎になすりつけようとした証左でもあり、百合子は卓郎が若年性のリウマチを患っていて冬緑油を使っていることを知っていたのだ。
また事件当夜、ひとりで散歩に行くと言って出ていった精二を見送ったという百合子の証言を、裏付ける者はいない。亭主が戻らないので午前0時すぎになって捜しに行ったというが、これも目撃者はいない。
仮にそこまでが事実であったとしても、捜しに行ったときに、いつもの散歩コースの途中に倒れていた亭主を、本当に見逃したのかどうかはわからない。実はそのとき、倒れている亭主を見つけ、あれこれ考えた末に警察への届けが遅くなったことも考えられなくはない。
葬儀の席上、喪服姿の百合子は泣いていたが、人間の涙が常に悲しみを表すとは限らない。恐怖や興奮などの入り混じった涙というのもあるはずだ。
そんなことを考えながら、真壁は1時間近く本郷通りを行ったり来たりしていた。足の裏がそろそろ痛くなってきたところで、百合子の家のはす向かいに喫茶店が見えた。そこに向かって歩き出したその時だった。
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