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 五日市街道まで出る。児童館前の交差点の角に、駐在所を見つけた。真壁は中に入り、警察手帳を示した。「お疲れ様です」と40代ぐらいの巡査が机から立ち上がった。

「巡回連絡カードを貸してくれませんか?」

 巡査は振り返り、後ろのキャビネットから分厚いファイルを取り出し、真壁に差し出した。ページをすばやくめくる。

「この・・・」真壁はあるカードを巡査に示した。「サンライズ成田西203号室の、本田和宏について、何か知ってることはないですか?昼は府中の競馬場、夜は駅前のパチンコ屋にいることが多いとか・・・」

「すいません。自分はまだ数週間前に異動になったばかりで・・・」と、巡査は申し訳なさそうな表情を浮かべて言った。

 真壁は礼を言い、ファイルを返そうとしたとき、スチール机の上に置かれた写真立てが眼に入った。収められた写真には、眼の前にいる巡査と、見覚えのある顔がパトカーの前で肩を組んで立つ姿があった。

 見覚えのある方の顔を指し、真壁が「これは、米村・・・?」と言うと、巡査が「自分は大谷康夫と言います。事件の日、一緒に出動したんです」と口を開いた。

「危ない目に遭わられたんですね」

「いえ、犯人を見つけて飛び出していったのは、米村なんです。自分は運転してただけで」大谷は重い息を吐いた。「米村は刺された後も、犯人を追ったらしく・・・這ったような跡が続いてました。その先に、制帽が落ちてて・・・手に取ってみると、血まみれでした」

 心なしか、大谷の声が震えているように、真壁は感じた。

「その制帽が忘れられなくて、交番勤務に異動を頼んだんです・・・怖くなったんですよ、情けないことに」

 大谷は、左手の結婚指輪をなでた。

「自分には家族がいます。自分が殉職したら、妻は、娘は・・・って考えてしまって」

「自分を責めることはないですよ。悪いのは、盗みを働いたあげく、米村を刺したヤツだけです」

 真壁がそう言うと、大谷は口元に寂しげな笑みを浮かべた。

「ところで、犯人はどこで何を盗んだんですか?」

「薬局に忍び込んだんです。現金が二万弱と、薬が少し」

 真壁は眉をつり上げた。「薬、ですか?」

「自分もよく分からないのですが、どうやら何かの軟膏だとか」

 午後1時すぎ、真壁は荻窪駅前の中華屋で昼食を取った。その後は近くのファーストフード店に河岸を変え、1杯100円の薄いコーヒーをちびちびやりながら、2時間ほど舟をこいだ。寝ても覚めても脳裏によぎるのは事件のことばかりだった。タバコを3本灰にした後、真壁は携帯電話を取り出した。耳元で嶋田の声が「はい、本部!」と怒鳴った。

 真壁は、杉原卓郎が署に引っ張られたのかどうかだけ確認した。午前8時10分に日暮里駅構内で任意同行を求められた卓郎は、酔っぱらったまま午前8時30分過ぎに署に入り、現在取調中とのことだった。こちらが尋ねもしないのに、嶋田は「もう少しだ。夕方には逮捕できる」と付け足した。

 殊勝に「何かできることはありますか?」と言えばよかったのだろうが、真壁は「分かりました」とだけ答えて通話を切った。

 頭の片隅に、「夕方には逮捕」という嶋田の声が残っていた。ついに逮捕か。

 真壁は、ふと考えてみた。逮捕の一報は、夕方のニュースに出る。遺体となった杉原精二のコートを整えた何者かも、ニュースを見るだろう。息子の卓郎が逮捕されたと知って、その何者かが最初に思うのは、「やれやれ、これでひと安心だ」ということだ。

 ニュースが流れた後、これまで息をひそめていた何者かはやっと解放されて、動き出すのでないだろうか。

 そんなことを考えたとたん、これまでに得たわずかなネタを、またぞろ惜しむ気持ちが湧いてきた。

 殺害した杉原精二の衣服をわざわざ整えた者がいる。それはおそらく女であり、真壁の頭の中では、単純明快に未亡人の百合子だった。それ以外に捜査線上に上がった女がいないということから、自然と百合子に眼が行ったのだ。そして、百合子がひとり暮らす杉原精二宅のゴミ箱をあさるうちに、存在が浮かび上がってきた男がいる。その男は3回、精二宅に姿を現した。百合子と事件を結びつけるのは、ちょっと無理があるが、亭主が死んで四十九日もすまないうちに、2人で三度も寿司を食うような男は、兄弟や親せきや会社関係にはいない。もし百合子の個人的な付き合いならば、死んだ精二が知らなかった一面を、女は持っていたことになる。

 事件との関わりで言えば、事件当夜についての百合子の供述がすみからすみまで事実かどうか、疑ってみるのは刑事として当然のことだった。何らかの始末をつけないと、後々まで寝覚めが悪くてたたられるのは結局、自分なのだ。

 これといった当てがあるわけでないが、この際、卓郎逮捕のニュースを待ちながら、百合子の動きをみるのも一案だと思った。

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