[8]
いまの真壁に出来ることと言えば、自分の捜査を見直すことしかなかった。
杉原精二の敷鑑(関係者への聞き込み)捜査を行うに当たって、上野南署の特捜本部は精二の妻、百合子の過去を洗い出すことになった。
18歳で秋田から上京してきた百合子は短大を卒業後、デパート勤めのかたわら、22歳で同郷の男と結婚した。子どもができず、同郷の男とは2年で離婚。その後、再婚したが、亭主が遊び人でよそに女を作ったためにまた離婚。
真壁と須藤が百合子の二番目の亭主だった本田和宏に、一応形ばかりの聞き込みをしに、荻窪へ行った。カンは経験と肩書の上位から順番に決まるから、所轄の若手2人に任せるあたりに、本部が一人息子の卓郎の線の他に、何の期待していないことは明白だった。
本田は、36歳。上背があり、少し肉がつきはじめたスポーツマンのような体格をしていた。意外と整った顔立ちをしており、昔ホストでもしていたような感じがした。真壁たちが見た時点では、本田はまったくの無為徒食のヒモだった。住んでいるマンションは不動産会社で確認したところ、一緒に暮らしている木暮早紀という女のものだった。
玄関先で来意を告げると、出てきた男の背後に、女がいた。本田は「ここじゃ、マズい」と言って、2人の刑事をマンションの裏手にある公園に案内した。そこで本田は、投げやりな口調で百合子に対する複雑にねじれた思いを語った。
「百合子のこと?もう忘れたよ」
斜に構えて真壁たちを眺めながら、片足を始終、貧乏ゆすりしていた。
「7年も前に別れた女のことをいちいち覚えてたら、俺はとっくの昔に首つってなきゃならねぇよ。でも、俺みたいなろくでなしと所帯持つと言い出したのは、百合子だからな。誰だって、そう言われりゃ可愛いと思うじゃねぇか」
見たところ、本田は人一倍見栄っ張りで、そのくせ挫折に耐える強さや責任感はなく、それで開き直っているような図太さも感じられない。おそらく忸怩とした人生だったのだろうが、女にはそれなりに優しいのかもしれない。
「でも、俺には分かってたんだ。どうせ、そのうち愛想つかして出ていくのは百合子だってな。物の考え方がどだい合わないのに、一緒にメシ食ってたら夫婦でいられると思ってたらしいな」
本田は左手に包帯を巻いていた。汗で蒸れて痒いのか、包帯と手の甲の間に指をむりやりねじ込んで、ボリボリと掻いている。
「手、どうしたんですか?」真壁は言った。
「この前、酔ったときに転んだんだよ」と言うと、右手が掻くのを止めた。
「それで?」
「俺はメシ食わせてもらって、へぇこらしてたら、亭主でいられるとは思ってなかった。じゃあ働けって言われると、頭に来るしよ。俺はどうせこんな人間だから、一緒にいたいんなら、それを分かれってあいつと何度もケンカしたけどな。結局、俺たちは水と油だったんだよ・・・」
たしかに夫婦生活が成り立つためには複雑な条件がいろいろと重なるから、結果的に本田の言う通り、しばらく付き合ってお互いに愛想を尽かしたということだろう。
だが口とは裏腹に、本田の眼には何か別の色が浮かんでいるように、真壁は思えた。その色が何なのかははっきりと言えなかったが、本田の言葉をそのまま鵜呑みにするには刑事の性分としても、当然ためらわれた。
午前9時半、真壁は成田西四丁目の公園に立っていた。あいかわらずビニール傘に当たる雨の音が耳につくが、早朝より若干、落ち着いてきている。もうすぐ止むか。
5階建てのマンションの裏手が見える。最上階は大家の自宅というから、4階までが賃貸になっているわけだ。1階は住民用の駐車場で、2階からワンフロア四戸の住宅。本田の部屋は203号室だったが、その窓にはカーテンがかけられ、内部の様子は窺えない。電気も付いてないようだ。さっきちらりとポストを覗いたが、何も入っていなかった。
本田と一緒に暮らしている木暮早紀については、年齢が32歳、銀座二丁目のバー「エルム」でホステスをしていることが分かっている。近所の話では、夕方4時ごろ出かけ、夜中にタクシーで帰るか、始発で朝帰りの日々だという。だとすると、今は部屋で寝ているのか。
大家の奥さんに本田について聞くと、「昼は府中の競馬場、夜は駅前のパチンコ屋にいることが多いみたいですよ」と言った。真壁がそのことを手帳に書いていると、「あの人、何かあったんですか?」と興味津々の顔で覗いてきたので、適当なことを言ってその場を離れた。
この後、真壁は2時間ほどマンションの監視に費やし、空腹とタバコで腹が痛くなってきたところで、近くの交番を目指して歩き出した。
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