[7]
降りしきる雨の中、真壁と小野寺はアメ横の喫茶店「シラノ・ド・ベルジュラック」に入った。店はどこにでもある庶民的なものだが、上野南署の依存度が極めて高い。昼時になると、スパゲッティやオムライスを食べる知った顔の署員が何人もいたりする。
まだ店が開いてから早いせいか、客はカウンターにひとり新聞を読んでいた。2人で窓際のテーブル席に座り、同じモーニングとコーヒーを注文して食べる。
小野寺がコーヒーをひと口含み、「ああ、美味い」と感慨深げにもらす。真壁には可もなく不可もない味だったので、「急にどうしたんですか」と笑った。
「毎日、コーヒーばっかり飲んでたら胃を壊すと思ってな。50になってから、紅茶にきりかえたんだが・・・最後の日ぐらい、コーヒーでも構わんだろう」
そう言うと、小野寺は半分ぐらい食べ残した皿をテーブルの脇に追いやった。暇そうな様子を見て、真壁は背広からタバコを取り出し、顔の前で振った。
「いや、いいんだ」
「タバコ、やめたんですか?」
「マルボロも飽きたんでな。なんか違うのに替えるから・・・だから、いいよ」
真壁は全て食べ終え、食後の一服にライターを手に取ると、小野寺がマッチ箱を振ってみせた。
「マッチの方がウマいぞ、真壁ちゃん。葉っぱがじかに燃える感じがしてな」
小野寺がマッチを擦り、「スイマセン」とことわってから真壁はタバコをくわえ、火に当てた。最初、マッチの黄リンが燃える香りがツンと鼻を突き、タバコの葉の香りがより鮮明に感じられる。じかに燃える感じとは、このことだろうか。
ふとテレビに眼を向けると、金町で暴力団員2名が薬物の不法所持で逮捕されたニュースの後で、「今月16日未明、中野区中央の鍋屋横丁で・・・」とアナウンサーが言い、真壁は耳をそば立てた。
《中野東署の米村啓太巡査が殺害された事件で、同署の特別捜査本部は今日午前8時、住所不定、無職、中国籍の宋隆生容疑者56歳を強盗殺人の疑いで逮捕しました。宋容疑者は現在、容疑を否認しているとのことです》
小野寺もテレビに眼を向ける。
「殺された米村って巡査、まだ30にもなってなかったそうだな」
「同期でした」
小野寺が眉をつり上げた。
「知ってるの?」
「警察学校の剣道の講習会で、何度か試合しただけですけどね。高卒で警官になって、早く刑事になりたいんだけど、まだ外勤だなんて笑ってました」
「まぁ、宿命だよな。もっとも、二課のおれが言うことじゃないかもしれんが」
警視庁に在籍する約4万3000人の警察官のうち、機動隊や特殊班に所属しているような場合を除けば、小野寺のように命に関わる場面に出くわさずに退官を迎えるほうがかなり多いはずだ。
「そう言えば、さっき須藤と面白そうな話してたな。ゴミ箱がなんだって?」小野寺がニヤりと笑う。
「・・・女を探してるんです」
「女?どうして?」
「現場で、遺体の半コートを整えたヤツがいます。それはおそらく・・・卓郎じゃないはずです」
「だが、物証があるじゃないか。たしか、冬緑油だったか・・・」
「コートに、油類はいっさい付着してませんでした」
「たまたまかもしれん」
真壁は灰皿にタバコを押しつぶした。
「でも、どうして女なんだ?」
「・・・なんとなくですよ」
小野寺は苦笑を浮かべた。
「なんとなくじゃ、ダメですか?」
「いや・・・真壁ちゃんがそんなことを言うとはねぇ。ほんとは、さしたる確証を持ってるんじゃないの?」
「買い被りすぎですよ・・・」今度は、真壁が苦笑を浮かべた。
「でも、何かがひっかかるわけだ。それを突き詰めていって、アタリだったら、バンバンザイじゃないの」
小野寺とは、喫茶店の前で別れた。「今日はもう遊ばせてもらうよ」と言って、雨の街に消えていくその背は、どこか寂しげだった。さて自分はどうしたものかと考えていると、小野寺にどうしてこの時期に退官するのかを、つい聞きそびれたことを思い出した。
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