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 捜査本部の中では、靴音と話し声と警電の鳴り響く音が飛び交っている。会議室の席は自然と窓側に本庁組、廊下側に所轄組と分かれていた。

 真壁が「お疲れ様です」とひと声かけて所轄組の中に入っていった。「おはよう」とか「ごくろうさん」といった声が一つ二つ返ってきたが、どの顔も上の空だった。捜査の状況が刻一刻と動いていて、挨拶どころではないのだろう。

 真壁は手近のパイプ椅子に腰をかけると、刑事課強行犯係の同僚に「何か進展はありましたか?」と聞いた。

「卓郎の野郎、逃げたらしいな」同僚は首だけ振り向けた。

「逃げた?」

 この1週間、杉原卓郎には24時間態勢の尾行と張り込みがついていた。それが「逃げた」と聞いた瞬間、血が騒ぎ、掌に汗が噴き出すのを真壁は感じた。

「張り込みは何してたんです?」

 係長である平阪善明が「本庁の連中と一緒に、ヘマをやらかしたんだよ」と忌々しげに言い、鋭い視線を投げてきた。

 ホワイトボードの前では本庁の捜査主任が警電に怒鳴り、その傍では早くも顔を見せた署長と本庁の係長が眉にしわをよせて額を突き合わせ、署活系無線には次々に現場からの報告が入ってくる。誰か話のできる奴はいないのかと見回すうちに、刑事課長の嶋田が「清聴!」と手を上げた。

「卓郎が自宅から消えた。逃亡したものと思われる」

 何が思われるだ。真壁は仏頂面を浮かべた。

「報告によれば、逃亡したのは午前7時5分前。近所の通行人が、卓郎が自宅裏の塀を超えるのを目撃した。張り込み班が追いかけたが、卓郎はすばやくタクシーに乗り込み走り去ったため、見失った。現在、タクシー会社が無線で当該のタクシーを呼び出し、位置を確認中」

 窓側の本庁組から「見張りは居眠りでもしてやがったのか」と声がした。平阪が「うるさい、黙っとれ」と、それをはねつけた。

 徹夜で張り込んで対象に逃げられるというヘマをやらかしたのは、本庁の2名と上野南署の2名だったが、平阪は別に自分の部下を庇ったわけではなかった。単に、日に一度は本庁組をいびるのが、平阪の日課になっていただけだった。

 刑事課長の嶋田がそのやりとりに顔を少ししかめた後、言葉を続けた。

「卓郎が逃亡したことで、容疑は固まった。見つかり次第、署に引っ張ることになる。ついては、これから各班の今日の割り当てを行う・・・」

 本庁の捜査一課から来ている第5係の10名と合わせて総勢30名弱の捜査員は三交替で杉原卓郎の行確、証拠固めのための地どり、カン(敷鑑)捜査に続けていた。

 杉原卓郎が「逃げた」と聞いた直後に、真壁が考えたことは2つある。1つは、これで卓郎はクロということでケリがつくのだろうということ。もう1つは、仮に卓郎がクロになっても、それでもやはり被害者のコートを整えた者は、別にいるのだということ。それは女だと、真壁はにらんでいた。

 真壁はこれまで数回会った杉原卓郎の赤黒いアル中の面を思い出しながら、今朝から降り続いている雨のようにじくじくと考え続けた。実は真壁は、本部の捜査方針とは別に、こっそり女を探し続けていた。会社の金を使い込む以前は、あちこち飲み歩いて複数の女に手を出していた卓郎だが、最近はもう事情が違った。現にこの1か月の敷鑑でも、特定の女がいるという形跡はなかった。したがって、ホシは卓郎ではないというのが真壁の考えだった。

 しかし、そう考えてはいるがはっきりとした裏付けはなく、今の段階ではたんなる思い込みにすぎなかった。卓郎の任意同行が決まった今、異議を唱えるに十分なネタはなかった。本部には、現場に女がいたと考えている者はなく、そんな話がちらりと出たこともない。それでも勝手な思い込みで、女を探し続けてきたこの1か月の経過とわずかな自分のネタを、このまま捨ててしまうにはあまりに虚しかった。

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