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 真壁は午前7時すぎに、上野南署に入った。特捜本部の置かれている3階の会議室には足を向けず、まず2階の刑事課へ上がった。

 まだ誰も来ていない。最初に黒板のそばに貼られた日めくりが眼に入った。昨日の30日の分を破り取り、ゴミ箱に丸めて投げた。31日となった日付をちょっと見つめていたら、ある顔を思い出し、当直が顔を覗かせたことに気づかなかった。

 当直は髭の伸びた眠そうな眼をした中年の顔で「早いですな、部長刑事殿は」と声をかけてきた。しかし、その眼は「誰よりも早くやって来て、通報を待っているくせに」と告げていた。

 真壁が早く署に出てきたのは、もちろん特捜本部に顔を出すためだった。事実、昨日も午前7時には本部に入った。この1週間、杉原殺害の捜査が山場を迎えて、本部は24時間態勢になっていた。

 昨日は、卓郎宅の張り込みを切り上げたのが前夜の午後10時で、大井町のマンションに戻ったのが午前0時前。5時間ほど寝て、またマンションを飛び出し、本部に出てきたのだった。

 その当直は真壁の倍ぐらいの年齢だったが、前回の巡査部長の昇任試験で真壁と明暗を分ける結果となり、それ以来、何かとつっかかってくるのであった。

 早朝の不機嫌から「うるさい」と吐き捨てた後、真壁は洗面所に入って、自前の歯ブラシで歯を磨いた。刑事部屋に戻り、当直が宿直室に引っ込んでいるのを確認すると、隣のロッカー室から、さっき思い出した顔が出てきた。

 小野寺茂夫。

 刑事課知能犯係のベテラン警部として、小野寺は40年近く本庁と所轄を行ったり来たりを繰り返してきた。それも今日で最後だった。真壁はある事件の捜査で、小野寺に参考人の別件逮捕で協力してもらったことがあった。

 真壁が「手伝いますよ」と声をかけた。「おお、そうかい」と言って、小野寺は両手に抱えていた段ボール箱を手渡した。箱の中に入っていたのは雨靴一足、下着の替え、風呂敷、ナイロン製のヤッケなどだった。

「机の上に置いといてくれ」

 そう言われて、すでに片付けが終わった何も上に乗ってない小野寺の机を見ると、真壁は漠とした哀愁を感じた。

「あとは、四品と拳銃の番号札を返すだけだな」

 四品とは警察手帳、手錠、捕縄、警笛のことである。

「長い間、ごくろうさまです」真壁は言った。

 小野寺は顔に苦笑いを浮かべた。

「それにしてもなぁ、最後のヤマが殺しなんてなぁ」

 現在、上野南署は三つの捜査本部を抱えていた。いずれも殺人・強盗を担当する刑事課強行犯係絡みの案件で、強行犯係だけでは当然足らず、杉原精二殺害事件の捜査本部では同じ刑事課から知能犯係が応援に投入されていた。

「今日、おれの送別会あるから、真壁ちゃんも出てくれよな」

「はぁ・・・」

 真壁には、不思議に思っていたことがあった。本来なら、小野寺の退官は来年の3月のはずだ。それを7か月も前倒しにするからには何がしかの理由があると考えられるが、それを口にしようとしたとき、小野寺が「そろそろ七時だから行こうか」と言った。

 2人が階段で3階の廊下に上がると、特捜本部が置かれている会議室の扉は開け放してあった。扉の脇の壁に、「上野公園内殺人死体遺棄事件特別捜査本部」という墨書きの張り紙、すなわち戒名が出されている。

 小野寺が「韮崎さんの方が戒名、上手かったな」と呟いた。去年、本庁の生活安全課に異動した元刑事課長代理の韮崎には、たしか書道のたしなみがあった。真壁は脳裏の片隅に、そんなことを思い出していた。

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