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事件の背景は比較的、単純なものだった。
被害者が残した個人所有の不動産の評価額は、自宅の土地建物で約1億。生命保険が2億。ほかに銀行預金が5000万ほどと、被害者が経営する不動産会社の株式。それらを合わせると、個人資産はかなりの額に達した。
結果的に、それらの資産はすべて妻の百合子が相続することになったが、百合子は生命保険の半額を、勘当された息子の卓郎に分けた。遺産相続で親族ともめた形跡はなく、残された会社の経営の方も、特に不審な点はなかった。
そんなわけで、金銭上のトラブルによる殺人という線は薄くなり、金品目当ての行きずりの犯行という線も、目撃者は不審者が現れないまま行きづまり、個人的な恨みもしくは利害関係を持つ者による犯行という線が残った。そこに第一に嫌疑のかかったのが、被害者の息子、卓郎だった。
父親に対する恨みという意味では充分すぎるほどで、勘当されて以来、卓郎は父親への憎悪をしばしば口外していた。その上、事件前日に被害者に電話をかけていることが判明した。卓郎はたびたび被害者に金の無心をし、百合子の知る限りでは、杉原は月々の生活費を勘当した息子に渡していたという。
その電話の内容を妻の百合子は聞いていないが、いつも通り杉原は「あのろくでなしが」とだけ百合子にもらした。そして何より、卓郎には事件当夜のアリバイがなく、警察の聴取でもたびたび供述を翻し、捜査陣の心証を悪くしていた。もっとも卓郎はかなりのアル中で、酒を飲んでいるときは全く何も覚えていないことも多く、記憶にないことを問い詰められて、狼狽した結果の翻意や逡巡という面を認めなければならないだろう。
特捜本部は1週間前から、ホシを卓郎と内定して、張り込みに入っていた。卓郎は警察の包囲に気づき始めている様子で、家から一歩も外に出ず、1日じゅうテレビの音を響かせていた。
肝心の物証の線では、被害者の頬から検出された油性の物質が分析の結果、サリチル酸メチルと判明した。ヒメコウジから採れる冬緑油であり、凍傷の治療やリウマチによる関節痛の緩和に使われている。
特捜本部は張り込みのほか地どりや聞き込みを続け、ついに2日前、卓郎が20代のころから若年性のリウマチを患っていることを突き止めた。百合子の証言では、卓郎は未だ痛む腕や膝の関節に毎日、冬緑油の軟膏を塗っているという。特捜本部は色めき立ち、今日にでも卓郎を任意同行させ、48時間以内に必ず落とす作戦に出ようとしていた。
今朝、真壁が早朝から事件現場に足を運んできたのは、ある暗い衝動にかられてのことだった。冬緑油という証拠がある限り、杉原卓郎を逮捕することに異存はないが、晴れない疑念はそのまま残っている。
遺体のコートやズボンを整えたのは誰か。卓郎というアル中を1週間見てきた限りでは、到底そんな気配りをしそうな男には見えない。妻子に逃げられた家はゴミ屋敷のような有様で、自分の着ているものさえだらしなくしている男が、遺体の衣服をご丁寧に整えたりするものか。しかし、絶対に有り得ないかというと、そんな確証は持てない。
卓郎がホシならば、共犯者がいる。遺体をベンチまで運び、衣服を整えた誰か。あるいは、ホシは卓郎の他にいる。
そんなことを自分に言い聞かせながら、真壁は半時間あまりベンチのそばで無為に過ごした。立ち上がった時には、両脚の膝がしびれて、無様にがくがくと震えた。
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