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 被害者の氏名は杉原精二、74歳。地元の台東区に土地や借家を多数所有している不動産会社を経営していた。家族構成は40になる一人息子と、同じく40の若い後妻の2人。後妻との間に子どもはなし。息子は父親の会社を手伝っていたが、金を使い込んで勘当され、結婚も失敗した。その後、一時はどこかで勤めていたようだが、今では酒びたりでごろごろしている生活だった。

 杉原は2年前に脳卒中で倒れて以降、人目をはばかる隠居生活を送っていて、毎晩人が寝静まる午後10時ごろに、妻を付き添って散歩に出るのが日課だった。この散歩は雨の日でも欠かされることはなかった。

 言語障害と軽いパーキンソン病の症状があるが、日常生活には不自由はなく、毎日2時間程度の散歩をして、身体はかなり回復していた。

 事件前夜、杉原は妻の百合子に「今夜は気分がいいから一人で行くよ」と声をかけ、いつもの午後10時に散歩に出た。

 百合子の供述では、杉原がそう言ったとき、たしかに顔色がいいように見えたという。それに、ときどきは独りで散歩に出ることもあったので、特に心配はしなかった。百合子が玄関から見送ったところでは、杉原はいつもの道をいつもの足取りでゆっくり上野公園の方向へ歩いて行った。

 百合子は午前0時を回っても亭主が戻らないため、近所へ捜しに行った。上野公園も回り、1時間近くうろうろと捜したが、姿が見えないために不安になって急いで家に戻り、110番に電話をした。

 記録では、通報があった時刻は、正確には午前1時5分。池之端の交番から巡査が出動し、付近を捜して公園内の現場に到着し、遺体を発見した。それをすぐに警視庁の通信指令センターに知らせたのが、午前1時半。

 百合子が亭主を捜しにいって現場を通ったのは、それより1時間ほど早い午前0時半ごろと考えられ、そのときベンチに倒れている亭主には気づかなかった話だ。たしかに、ベンチの周辺は暗く、まっすぐ伸びている遊歩道の先や、併設されたトイレなどに眼を向けていれば、ベンチの暗がりは見えなかったのかもしれない。

 検視の結果、死因は頭部を強打されたことによる頭腔内損傷と断定された。特に後頭部は数回に渡って強打されたために、脳組織が剥き出しになり、毛髪や頭皮に組織の一部がこびり付いていた。

 凶器は、現場に落ちていた直径12センチの石。泥にまみれていたが、わずかながら血痕が付着しており、この血痕と被害者の血液型が一致した。創傷内部からは砂粒が検出され、凶器となった石と同一。

 暴行の痕跡はなかったが、被害者の顔面や手足に多数の擦過傷が見受けられ、犯人に襲われた後、植え込みに顔から突っ込んだためにできたものと推測された。また、被害者の頬から透明な油性の物質が検出され、科学捜査研究所に送られた。

 死亡推定時刻は、当夜午後11時ごろから翌日の午前1時の間。

 当夜が雨だったこともあって、現場からは靴の有効な痕跡は採取できず、杉原のものの他に体液、毛髪、皮膚片、糸くずなどもなかった。また現場に残された傘からは、杉原本人の指紋しか検出されなかった。凶器の石からも、何の指紋もなし。

雨の深夜だったため、被害者が公園を歩いていた姿を見た目撃者はいない。

 さしたる物証もないまま、上野南署に設置された特捜本部は現場の状況から判断して、他殺の線で捜査を開始した。

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