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 午前6時すぎ、霧雨の鈍色ににじむ空気はじっとりとからみつくようで、じっとしているだけで額に汗がにじんでくる。

 真壁仁は池之端三丁目、上野公園の中に立っていた。晴れた日にはジョギングや散歩の人影が絶えない遊歩道も、今はまだ無人だった。ビニール傘をさしたまま、真壁は緑色に塗られたベンチの前でしゃがみこむと、眼を落としてベンチをにらんだ。

 事件は7月18日に発生した。

 男がベンチの上で仰向けのまま、頭から血を流して倒れているのが発見された。時刻は、午前1時半。散歩から帰ってこないと、家人から通報があって約半時間後、捜索に出た近所の交番の巡査が遺体を見つけた。巡査はすぐに無線で通信指令センターへ通報し、本庁指揮台からの一報で、所轄の上野南署や本庁の機動捜査隊から捜査員が急行した。

 事件当夜も、雨が降っていた。上野南署の当直からの連絡で、真壁も大井町から駆けつけたが、タクシーを飛ばして半時間後に現場近くに到着したとき、慌ててマンションから飛び出してきたために傘を忘れ、公園の中を濡れながら走ったのだった。

 その時はすでに、鑑識の作業もあらかた終わり、同じように呼び出された署の同僚たちや機捜隊員たちはほとんど付近の地どりと聞き込みに散ってしまっていたが、署長などの幹部と検視官が到着していなかったために、遺体はまだビニールテントの下にそのままの状態で横たわっていた。

 遺体は、痩せた小さな老人だった。コートにウールのスラックス、カシミヤのセーターといった、季節を間違えたと思える着衣がまず眼についた。

 そして、次に真壁の眼をひいたのは、コートがベンチに横たわっている背の下で、よじれたりめくれたりしていなかったことだ。まるで女性が椅子に座るときに、スカートがしわにならないように手で裾を引き伸ばすように、仰向いた遺体の背の下のコートはきれいに整っていた。

 真壁は現場にいた鑑識課の主任、長谷敏司に「遺体、動かしてないですか」と尋ねた。

 長谷は「動かしていない」という返事だった。

「着衣その他、まったく触れてないんですね」

「触ってませんよ。まだ検視官が来てませんからね」と、長谷は言った。

 発見されたときのまま、まったく動かしていないという前提に立って、真壁はコートを丹念に眺めた。前夜からの雨で布地はすっかり濡れそぼっていた。コートの裾はきれいに伸びているが、背中側の下方に薄く泥がついている。スラックスにも背中側の両脚の袖、靴も踵の裏側に泥が付着していた。

 それらは、この遺体の姿勢ではつくはずのない泥だった。コートの袖が背の下からわざわざ引き出して伸ばしていることも考え合わせると、はじめ遺体は別の場所で殺害され、その後ベンチの上に仰向けに寝かされたことを意味していた。

 真壁が長谷に被害者の遺留品について聞くと、財布や時計その他、盗まれたものは無し。ベンチから10メートルほど離れた植え込みで、被害者がさしていたと思われる黒い傘が開いたまま、見つかっているという。

 傘が見つかった植え込みはこんもりとしたアオキの茂みで、高さは長身の真壁の下腹の辺りまであった。幅も軽く両腕を広げたぐらいはあり、仮にここに遺体があった場合、捜索にはかなりの時間がかかっただろうと思われた。

 真壁は雨に洗い流されることなく残った着衣の泥を採取するよう、長谷に頼んだ。鑑定結果はその日のうちに出て、植え込みの付近の泥と同一だという結論だった。

 そして、その日から真壁の脳裏にある疑念が沈着していった。誰が遺体をベンチまで運び、乱れた遺体の着衣を直したのか。それは当然犯人に違いないが、なぜわざわざ目立つようにベンチの上に遺体を置き、そして着衣を直したのか。

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