逆転の雨
伊藤 薫
プロローグ
2週間前―。
警視庁の通信指令センターに、「中野東署管内鍋屋横丁付近において泥棒が逃走中」という通報が入ったのは、午前0時8分のことだった。
隣接各署を含めた緊急配備が発令され、中野東署で当直勤務中だった米村啓太巡査は、同僚の大谷康夫巡査が運転するパトカー「中野東三号」で現場に急行した。
米村が110番で第一報を受けて駆けつけた場所は、住宅と小さな町工場が混在する古い街並みの中に寺院や公園も多くみられる静かな地域だったが、窃盗事犯の発生が多い地域でもあった。
米村のパトカーが通報地点の付近に差しかかると、そこは両側に商店が立ち並ぶ大通りだった。そのとき、パトカーの前照灯が不審な男の姿をとらえた。サイレンと赤色灯を消し、減速して男を確認しようとするが、男は背後のパトカーに気づき、逃げ出した。その体格と着衣は、通信指令が流し続ける情報と酷似していた。
「至急、至急!中野東三から警視庁」
緊急事態になると、関係する方面の警察署をはじめ、出動している全パトカーが同一無線を一斉に使用するため通話が困難になる。そのため、「至急、至急!」とする通話が最優先される。
「至急、至急!警視庁から中野東三、どうぞ」
「中野東三ですが、手配の人着に似た男を発見。これから追跡します。どうぞ」
米村の興奮した声が至急報で流された。
「警視庁了解。警視庁から各局、中野東三が男を発見、追跡中。中野東どうぞ」
米村はマイクを投げ捨てると、パトカーを飛び出し、走って追跡をはじめた。運転を担当する大谷は、徒歩で追う米村をパトカーで追いかける。そのうち大通りを外れて、狭い裏通りへ入った。
米村は不審者を追って、さらに狭い路地裏に入って行った。パトカーによる追跡は不可能になり、大谷はパトカーを近くの路地に停車させ、米村の携帯無線に呼びかけた。ところが、不審者を追って米村の姿が見えなくなってから一分も経過していないのに、いくら呼びかけても応答がない。慌てた大谷はパトカーを放置し、携帯無線で米村に呼び続けながら、路地裏に走った。
やがて路上にうずくまっている人に声をかけている、この周辺の住民らしき人が眼に飛び込んできた。
大谷が倒れている人に眼をやると、驚いたことに米村が路上に飛び散った鮮血の中で動けなくなっていた。大谷は何度も米村の体をゆすり、声をかけたが、すでに米村の反応は無かった。
「至急、至急!中野東三から警視庁!中野東!」
「至急、至急。警視庁です、どうぞ」
「中野東です、どうそ」
警視庁の通信指令センターも中野東署のリモコン担当者も、大谷の声にただならぬものを感じ取っていた。
「米村巡査が刺されました!至急、救急車の派遣を願います!どうぞ!」
「警視庁了解!現在地、どうぞ!」
報告を終えた大谷は、米村の装備品を確認した。拳銃や警棒は無事だったが、制帽が見当たらないことに気づき、周辺を見回した。すると、地面を引きずったような血痕が続いていた。
懐中電灯でその痕跡の先を照らすと、約15メートル先は民家のブロック塀で行き止まりになっていた。塀の足元には、争った跡のような大量の血痕が広がり、制帽はその血だまりの中に落ちていた。
米村は東京警察病院に救急搬送されたが、午前0時40分に死亡が確認された。27歳という若さだった。
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