「紅」
生まれて初めて塗った紅は、わたしの中ではよい出来だったのだけど、にいさんは、下手くそだなぁ、お化けみたいだぞあき、あき、と言って笑うので、むっとなってしかめっ面を作り、わたしはにいさんの、その布越しにも透けて見える細い腕を何度も叩いた。いたい、いたい、とにいさんが騒ぐ。それから、にいさんは、嘘だよ、と冗談ぽく笑い、うそだよ、ちゃんとできてる、あき、といつもより少し声を低くして、こそっと、内緒話でもするように囁くのだった。
にいさん、にいさん。
わたしは、唇に塗られた紅に指で触れる。いつもの、少しかさかさした唇の代わりに、濡れた、滑らかな紅の感触がある。わたしはそれをなぞって、手の甲で拭いた。
にいさん、にいさん。
塗りなおしてください、にいさん。
そうねだると、にいさんは眉間に縦皺を寄せて、困ったような顔をした。あき、わざとだろう。にいさんが言う。そうです、わざとですにいさん。わたしはしたたかな女のふりをして、小首を傾げてみたりなどする。その姿は、にいさんと草木相撲をするのが好きな娘だったわたしにはさっぱり似合わない。にいさんもそう思ったらしく、縦皺を緩めて、苦笑した。あき。あき。にいさんは幼いわたしに子守唄をしてくれたのと同じ、やわらかい、絹のようなやさしい声で、わたしの名を呼ぶ。似合っているか、不安なんだろ? わたしは今度こそ、本当に首を傾げる。少し考えて、わたしのまとった衣装のことを言っているのだと理解した。わたしは、自分の胸、腹、膝を見て、そして首を振った。似合っているとは思わなかったが、似合っていないから不安なわけではなかった。にいさんは、おや、という顔をして、眉間にまた縦皺を寄せて考え込むそぶりをした。わたしはふふっと笑う。にいさんは、考え込むとき、眉間に二本、縦皺を寄せる。愛らしい、二本の縦皺。わたしだけが、知ってる。
にいさん、にいさん。
わたしは目の前の男のひとに、もう一度ねだった。
紅を塗ってくださいな、にいさん。
わたしの声に滲んだ、切実さににいさんは、気付いたろうか。にいさんはわたしがひそかに夜の海のようだ、と思っている黒の眸にしばらくわたしを映していたが、やがてあき、と苦笑まじりに呼んで、わたしの白粉をはたいた頬に触れた。羽化したての蝶の翅のように透き通った、にいさんの指先。にいさんの指先が、紅をすくって、わたしの唇に触れた。下から丁寧になぞり、整えて、上も同じ風にする。わたしは、少し口を開き、されるがままになっていたが、終わりに、にいさんの指を舐めた。紅の、にがい味がした。にいさんの無垢な眸がわたしを見下ろしたので、わたしはふふっと笑い、ありがとう、義兄さん、と言った。
――わたしは今日、慣れ親しんだ姉の家をあとにし、にいさんではないひとに嫁ぐ。唇を彩るのは、あかく、ただれたような、それでいて、うつくしくもある、紅一色。
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