「恋愛未満コンロ。」
説明しよう。
バレンタイン司教というのは、俺の後輩の島村光太郎が飼っている背中に黒い一本線が入ったちまっこいハムスターの名前である。目の色はルビー。この赤い瞳にラブ的神秘性を見出した島村光太郎は、以来ハムスターをバレンタイン司教と呼んでいる。バレンタイン司教。かつて、結婚を禁じられていた憐れな男女の挙式をこっそりしてやった徳の高い聖人様をハムスターにつけるそのセンス。生まれてこの方常識人を自称している俺にはとんとわかんね。
*
「先輩。バレンタイン司教が風邪です」
三日に渡る会社泊まりこみの末、ようやく解放され、ネギと豆腐とセール品じゃない豚肉を買ってアパートへ向かった俺を迎えるなり、島村光太郎が言った。
「……島村くん」
はぁと俺は息をつき、手荷物をこたつに放る。
「連日連夜顕微鏡の中の大腸菌と見つめ合い続けた先輩に最初に投げかける台詞がそれなのかな? 違うよな? ここは先輩どうぞ、まずは冷えたビールを一杯いかがですかと冷蔵庫から缶ビールを取り出してくるところだよな? そうだろう後輩」
「コーラならありますよ」
ちっ、ノンアルコール族め。
のったりとコアラみたいな顔でコーラを取りに行った島村をコートを脱ぎながら見送り、俺は部屋の隅にちょこんと置いてある金属製のゲージの前――島村家での俺の定位置にあぐらをかいた。
「おーい、生きてっか。バー」
がこがことゲージごと揺らしてみる。風邪をひいたらしいバー、もといバレンタイン司教はティッシュケースで作った巣の中で丸まっていた。
「おーいバー。バー。……なぁ、これどのへんが具合悪いの?」
俺は首を傾げて、ゲージの隙間からバーの腹をつついた。バーは薄目を開けたが、愛想なくまた丸まり直す。飼い主に似て可愛くねぇ。
「いつもより元気ないじゃないすか。髭、しょぼんとしてるでしょ」
キッチンで島村が鍋にキムチ鍋の素を入れながら言った。
「湿気が多いんだろ。お前、過保護すぎ。こんなの適当にひまわりの種やってりゃ治るって」
「そうですかね」
そうそう、と俺は物知り顔でうなずいておく。島村は未だそうかなあ、という顔をしていたが、とりあえずは先輩の顔を立ててやろうと思ったようで何も言わずにガスコンロに乗せた鍋と、それからコーラ缶を置いた。俺はちょうどこたつ布団に隠れていたリモコンを救出したところで、レトロなちっこいテレビに、ド派手な演歌歌手が映る。
「……大晦日にさぁ」
「なんですか?」
島村はかちかちとコンロに火をつけている。
「後輩と鍋をつついてる俺。すっげ、今寂しさがふつふつと胸に押し寄せてきた」
「彼女いたじゃないですか先輩」
「わかれましたー」
やけになって俺は言ってしまった。島村が素で驚いた様子で顔を上げる。
「え、いつ?」
「イブに。他に過ごしたい人がいるって」
「あー……きついっすね」
「きついよ、男泣きだよもう。俺が何したってんだよ。せめてイブと正月終えてからにしろよ。あー、もう肉入れていい?」
鍋が沸騰してきたのを見て、俺は豚肉を箸でつまみ上げた。ひとりっこのぼんぼん育ちのせいか、こういうときの島村はぼけっとしてるので、仕方なく島村の分も放り込んでやった。
「先輩ってどうしてもてないんですかね」
「知るか。つか傷つくから、もてないとかそういうこと言うなよ」
島村が引き上げた肉を食べるのを見ていると、ちりっと俺の胸の中で何かが疼く。ちりっと。なんだろう、コンロの点火みたいなの。でも火花が散るだけで、炎にはなんねえの。
ごめんな、バー。
お前に変なもん食わしちゃったの、俺です。島村には内緒だけどさ。
懺悔の想いをこめて頬袋のあたりを指で撫ぜると、バーは俺の指を食い物と勘違いしたのかがぶがぶ噛みついてきた。
「俺にも、悩みがあるんです」
俺が食後の一服を始めると、島村が改まった調子で口を開いた。ゲージから出してもらったバーは机の上で、ティッシュ箱の端をかじっている。この家はバーのせいで、至るところの角が削れていた。
「小夜ちゃんが、この前腹壊したじゃないですか」
「……盲腸な」
「それで、病院にお見舞いに行ったんですけど、中に入れてくれないんです。先輩、どうしてだと思います?」
「はぁ? 俺に聞くなよ、んなもん」
俺がつっぱねると、島村は不満そうに唇を尖らせる。
「先輩だから、聞いてるのに」
「知らねっての。お前の頭はあれか、ハムスターの腹とカノジョの腹でいっぱいか」
「当たり前ですよ。だって俺、小夜ちゃんも司教も愛してますから」
「ぶへっ」
煙を吸い込んで危うく俺はむせそうになった。
これだから平成生まれのぼんぼんってのはよ!
昭和末期生まれの俺は渋面を決めると、短くなった煙草を灰皿に押し付けて、チャンネルを変えた。
「実はもうひとつ悩みがあるんです」
「そりゃあいい。悩め! 苦しめ! リア充よ!」
「――俺、この前の誕生日に小夜ちゃんに指輪を贈ったんですけど。ダイヤの」
平然と俺を遮り、島村は言った。
「えと婚約指輪」
俺はコーラを吹き出した。
「婚約指輪!?」
聞いてねえぞ。しかも、ダイヤ。
「受け取って、もらえなかったんです」
島村は髭をしならせたハムスターのようにしょぼんと肩を落として俯いた。
「……へ、ぇー」
何とも言えず、俺はただ相槌を打つ。
「それは、ノーってこと?」
「俺も小夜ちゃんに聞きました。俺じゃだめって意味かって。でもそうじゃなくて小夜ちゃんは……」
そこで口ごもり、島村はコーラを煽った。空のコーラを置いて、ちらりと嫌らしく俺を盗み見る。俺のコンロがまたかちりと音を立てる。今にも着火しそうななんとやら。
「小夜ちゃんは、ひとりきりの身内がすごく大事らしいんです。ちょっと複雑な家庭じゃないすか。小夜ちゃん子どもの頃、事故で両親亡くして、それからそのひとがバイトとかしながらずっと小夜ちゃんを育ててきたから」
「いいお兄さんだよなあ、ほんと」
「俺もそう思います。そのくせそのひとは、そういう『苦労』は絶対ひとに見せないので、腹立ちます正直。でも、小夜ちゃんにとっての一番はやっぱりそのひとなんすよ。そのひとがいいお嫁さんをもらうまでは自分が世話をするんだって小夜ちゃん、言ってました」
というわけで、と島村は改めて俺の顔を見つめて言った。
「結婚してください、『義兄さん』」
けっと俺は吐き捨てた。
「しねぇよ」
こいつ島村光太郎。
俺の大切な妹のカレシで、裏切り者で、俺の最大の敵。
こちとら蝶よ花よと大切に育てた妹を『兄さんと仲良しの大学の後輩のコアラ』面して近づいて、さらいやがった。最低な野郎だよ。俺は妹から『お付き合いのご報告』を聞いたその日の晩、近くの神社の杉の樹んとこに走っていって、『島村光太郎』と書いたわら人形に釘刺してやったもん。それでも一日で呪詛をやめてやったのは、風呂上がりの妹がキャミソールに短パンのあられもない格好でいつもより念入りに爪を研いでいる姿を見つけてしまったからだ。ちくしょう、花飛ばしやがって。くっそ可愛いな!
それで仕方なく、裏切り者と俺の姫とのお付き合いを許してやったというに、あちらが結婚でこちらが破局というのはあまりにも世知辛いじゃないですか。
俺の恋愛はいっつも長く続かない。
『あんた別に、好きなひといるでしょ』
たいてい、そんな一言で終わる。
「つか、にいさんとかキメェから呼ぶな」
「いいじゃないですか。ゆくゆくはそうなるんすから」
「うぜぇ島村。先輩と呼べ」
鼻を鳴らすと、島村ははーとため息をついてバーをテーブルに置いた。バーは机の上に広げられたひまわりの種を食うのに夢中である。そのバーがはっとしたように飛びのく。島村がおもむろに机に突っ伏したからだ。
「……先輩。俺」
島村がぽそっと言った。コーラしか飲んでないくせに、耳が赤い。
「まだ、だめですか。俺じゃ不安ですか、小夜ちゃん預けるの。……そりゃあ俺、先輩みたいに根性ねえし、苦労してない平成生まれのぼんぼんですけど、それでも小夜ちゃんは絶対幸せにするつもりです。嘘じゃねぇっす」
なんだよ、おいおい。次は泣き落としかよ。
俺は島村が妹を落とした手腕を垣間見た気がした。
居心地が悪くなって視線をよそにやり、ひとまず、〆は雑炊だよなと思って、かちかちと火の消えたコンロを回す。だけど、繰り返してもなかなか着火しない。かちかち。かち。あー、ほんと、着火しねえ。
俺は息をつき、ひまわりを食ってるバーを抱え上げた。
それを島村の前に置く。
「フライングでハッピーニューイヤー、島村君。君に贈り物だ」
「はぁ。司教がどうかしたんですか」
「小夜子は怒鳴りつけておいた」
島村が顔を上げる。
雑炊を諦めた俺は頬杖をついて、ピーナッツを噛み砕いた。
「つか、てめぇらあのね。俺は老い先短いじいさんじゃないんです。何が世話するだ、ふざけんな。でさ、実は先週のクリスマスに兄ちゃん、ひと肌脱いでやろうと思って、小夜子に役所からくすねた婚姻届をくれてやった。あいつがもじもじしてっから、んじゃあ俺が届けてやるよってなもんで、お前んとこに行ったんだよ。お前出かけてたけど」
「駅前のケーキ屋でクリスマスケーキを売ってたんです」
「それで小夜子の合鍵を使って中に入ったら、ちょうどカノジョからメールがあってふられたの。むしゃくしゃしたから、その場でバーに婚姻届やっちまった。わり。たぶんそのへんの巣に残骸ちらばってるわ」
すまん、と手を合わせると、島村は頭の容量がオーバーしたみたいに顔を赤くしたり青くしたりした。
「つまり先輩、こういうことっすか」
こめかみを指で押し、島村は口を開いた。
「先輩は彼女さんにふられた腹いせに小夜ちゃんの書いた婚姻届をバレンタイン司教にやったと」
「まぁそうなるな」
「小夜ちゃんがここのところ、態度がおかしかったのも」
「まぁそのせいだな」
「先輩」
「うす」
「右からストレートパンチと、下からローキックどっちがいいすか」
本気そのものの目で睥睨され、俺はすくみあがった。
こいつ島村。ひよわっこの顔して中高大と格闘一筋。健康優良児だが中高大と帰宅部の俺はバーの首根っこをつかみあげ、島村のほうへ掲げた。
「助けて司教様!」
しんしんと年越しの鐘が鳴る。
島村はこうしちゃいられないとジャケットを羽織ると、部屋を飛び出していった。行き先は小夜子の病院。一途なのはいいが、あいつ今が12月31日の深夜0時近いことを忘れていやがる。面会できねぇだろ。
「いいもんなー。あんなコアラ、凍死すりゃいいもーん」
ティッシュを破り始めたバーの額を指で撫ぜ、俺は少し手持ち部沙汰にテレビに目をやった。思い直してコンロをかちかちとやるが、やっぱり火はつかない。――そりゃあそう。当たり前。たとえば、小夜子が俺の血の繋がらない母ちゃんが連れてきた血の繋がらない妹だって、あのちっこい娘のほそっこい肩をどんなにずっと守りたくたって、俺は一生、最後まで、小夜子のひとりきりのにいちゃんだ。だから、俺のコンロは一生つかない。
なぁバレンタイン司教。わかるぜ。あんた、本当は馬鹿っぷるどもの挙式なんかやりたくなかったんだろう? 馬鹿っぷるめぺっぺって夜丑の刻参りしながら泣く泣く恋の聖人やってたんだろう? だよな。だって、切ねえもん、つらいもん。息が潰れそうになるもん。なぁあんた、好いた女の結婚式にも立ち会ったのかい? その聖人面でさ。
「バー。そういうわけで来年は俺に胸はちっこくてもいいから尻はでっかくて出し巻き卵を作るのがうまいカノジョをください」
ぱんぱん、と手を叩く。
けれど、司教様はなーんも考えてなさそうなルビーの目で俺を見つめたあと、くしゅっとくしゃみをして、そして時計は0時0分を告げた。
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