「共鳴する第五指」

 晩夏。とこよの森が追いかけてくる。


「はるちゃん」


 布団に横たわった翅(はね)は、晴(はる)が額に手を置くと、うっすら目を開けた。夏になると決まって「憑きもの」のせいで熱を出す翅は、もうずっと床から起き上がれないでいる。常野山(とこのやま)のふもとにある屋敷は、山から年中吹き降りる風のせいで涼しく、冷房のたぐいはついていない。翅の額には冷却シートが貼ってあったけれど、ずいぶんぬるまっていた。


「プールどうだった? 背泳ぎできた?」

「できた」


 ビニール製のバックを畳に放って、晴はこたえる。本当はそのことを翅に言いたくてたまらなかったのだけど、なんとなく騒ぎ立てるのは嫌で、足指あたりへ目を落とす。すごいねえ、と翅は相好を崩し、晴の日に焼けた手のひらに顔を寄せた。


「はるちゃん、お日さまとプールのにおいがする」


 目を細めてわらう翅の声に重なり、蝉しぐれがひときわ大きくなる。半分ほど開いた障子戸から、晴はみどりに染まる常野山を仰いだ。晴は常野神社の子どもとして生まれついたのに、翅のようにひとにあらざるものが見えない。聞こえない。代わりに、わるいものたちも晴には決して近づかない。それはすごいことなんだと翅は言う。


「はるちゃん」


 翅の白い指先が晴の手を引いた。


「翅ね、大きくなったらはるちゃんのお嫁さんになる。はるちゃんのお仕事をたすけるの」


 ほっそりと病的に痩せた指先を差し出してきた翅に、しょうがないなあ、と呟いて、右の小指を絡める。晴もこの幼馴染の少女がずっと大好きだったから。


「ゆーびきりげんまん、うそついたら、はりせんぼん、のーます」


 ゆび、きった。



 *



「常野山の神に離縁状を叩きつけてやる」


 というのが近頃の常野晴の口癖である。

 東京の多摩西部。都会のおしゃれさからは数十年遅れた某市。市街地にある都立高校から晴の家までは、バスに揺られて四十分ほどかかる。


「あら、晴ちゃん。毎日、通学ご苦労さんねえ」


 スーパーの買い物袋を抱えて乗車してきたおばさんが、閑散とした車内を見渡して言った。


「最近の高校って八月でもやってるの?」

「まだ夏休みです。俺のは補修で」

「ふうん。晴ちゃん、真面目そうなのに」


 いくら真面目に勉学に励んでいても、日数が足りなければ進級はできない。重たげな買い物袋のひとつを網棚に上げるのを手伝っていると、「照(てる)さんはまだ帰ってこないの?」とおばさんは別のことを聞いた。


「京都出張が長引いてるみたいで」

「まったくあのひとは。ひとり息子放って何やってんのかしら」


 おばさんの嘆息にかぶさるように、「次は常野神社前、常野神社前」と車内アナウンスが流れた。降車ボタンを押して、晴はリュックを肩にかける。


「困ったことがあったら連絡なさいね。晴ちゃんひとりなんだから」

「はい」


 網棚のお礼に渡された夏蜜柑をリュックに突っ込み、晴は定期をリーダーに通した。ステップを降りると、バス停そばのベンチにちょこんと座る影がある。麦わら帽子にマキシ丈のワンピース、癖のない黒髪はビーズのバレッタでとめている。常野翅だ。姓は同じだが、晴と翅に血の繋がりはない。このあたりは常野姓が多く、数百年前までさかのぼれば、みな同じ血縁だ。


「はるちゃん!」


 無言のまま目の前を通り過ぎようとすると、翅が勢いよく立ち上がった。バスの車体が小さくなるのを見送って、晴の左手に右手を重ねる。


「おかえりなさい。そいんすーぶんかい、ちゃんとできた?」

「……」

「はるちゃん、はーるちゃん」

「……」

「かわいい奥さんにただいまのハグはないんですか、旦那さま」

「うるさい」


 即座にそこだけを否定すると、翅は不満そうに口をつぐんで、ぷいとそっぽを向いた。


「近頃旦那さまの言葉の暴力がひどいです。これってどうなんですか。ああ、照れ隠しですか。はるちゃん思春期だから、恥ずかしいんですか」


 ひそひそと晴にすれば、何もないところに向けて翅は内緒話を始める。翅は昔からこうだった。晴には見えないものが見えて、聞こえないものが聞こえる。虚弱のせいで、人間の友だちはいないのに、普通のひとには見えなくて聞こえないものたちとばかり仲良くなってしまう。

 常野翅は親が決めた晴の「妻」だ。

 高校一年生の晴はまだ結婚できる年齢に満たないが、常野の掟では翅と晴はめおとで、ずっと前に常野山の神さまに誓いを立てていた。不本意である。晴にはたいへん、不本意である。ひとの世での結婚可能年齢――十八歳までには常野山の神に離縁状を突き付けてやるのが、幼い頃からの晴の切実な願いだった。

 バス停沿いの通りをしばらく歩くと、脇に小さな参道が現れる。西の霊山・常野山のふもとにある常野神社。それが晴の家だった。年中人気がない神社の古びた鳥居のそばには、しかし今日は見慣れないワンボックスカーが止まっている。嫌な予感に駆られて足を止めた晴の前で、おもむろに車のドアが開き、虫襖の着流しにマーブルの頭をした年齢不詳の男が降り立った。


「やあやあ、はんぱものの晴くん。お元気? 相変わらず夫婦揃って仲良しだぁねえ」


 サングラスを外した男は糸目を細めて、「翅ちゃんも」と晴の隣にうさんくさい笑顔を向ける。


「晴くんラブにお変わりはなさそうで」

「ええ!」


 力強く翅はうなずいた。


「うたた寝する晴ちゃんを眺めて、あんなことやこんなことを妄想するのが最近のわたしの趣味です」

「ますます愛が深まって何よりだよ」

「蛇ノ井(へびのい)。用件はなんだよ」


 話が気味の悪い方向に脱線しそうだったので、晴は口を開いた。そうそう、と手を打ち、蛇ノ井は車窓を叩く。車から降りてきたものを見て、翅が瞬きをした。首を捻った晴に、「白無垢を着た狐さんだよ」と囁く。蛇ノ井と翅が視線を向けた先には、確かに一頭の狐がいたが、晴に見えるのはそれだけだ。しかし蛇ノ井がわざわざ連れてきたなら、「彼女」が常野神社の客人であることはまちがいない。


「『今代の常野守(とこのもり)はあなたですか』って聞いてる。少し不安そうなかんじ」


 ああそうか、と翅の言葉にうなずいて、晴は腰をかがめた。


「今の常野守は俺です。晴といいます。先代から役目を継いでまだ一年ですけど、力になれるようがんばりますから」


 不思議なもので、狐のほうは晴の姿も声もわかるらしい。しずしずとこうべを垂れた狐が、白平野の朧(おぼろ)を名乗ったと翅が教えてくれた。



 はるか昔。常野の土地を統べる山の神に契りを交わした女がいた。常野一族の祖である。彼女は常野の土地を借り受ける代わりに、そこに棲む森羅万象を守ることを約束した。契りは土地とともに子に受け継がれ、晴に至る。常野の役目は幼い頃から父に教えられて育ったものの、その父が突如行方をくらましたため、正式に常野守を継いだのが先年。当時の晴は中学生で、高校受験と重なって寝る間もなかった。

 そのとき晴の前に現れたのが、この男、蛇ノ井である。

 自称「守役サポーター」を名乗る蛇ノ井は、今は各地で細々と継がれるばかりの守役らを束ね、日本中を飛び回っている。「なりたて」の世話をするのも仕事のうちらしい。父に代わって晴にこの世界のしきたりを教えてくれたのは蛇ノ井だった。


「『白平野に棲む朧と申します。夫は新月(しんげつ)』」


 座布団に丸まり、狐の朧が言った。朧の言葉は翅が晴にもわかるよう訳してくれる。


「『新月は許嫁でしたが、若いみそらで死にました。ゆえ、身体と魂が常野山へかえる前に、せめてもと冥婚いたしました』」

「冥婚……」


 瞬きをした晴の横では、すでに事情を聞いたらしい蛇ノ井が土産の生八つ橋を開けている。冥婚とは、婚姻前の男女が死んだときに、年の近い現世の男女を形だけ娶らせ、常世に送るためのならわしである。このあたりではまず、つがう男女の身体の一部を七日の間繋ぐ。その繋がりを断つことで、死した魂は肉体を離れ、常野山へとかえっていく。


「『ですが、棺にあったはずの新月の遺骸が消え失せてしまい……。これは噂の火車(カシャ)が盗んだのではないかと案じて、相談にまいりました』」

「新月さんと冥婚したのは何日前ですか」

「『三日前です。白平野の老狐に頼み、わたくしの右脚を繋ぎました』」


 冥婚したときに繋いだものは常世に属するため、七日後に繋がりを断たなければ、こちら側には戻ってこない。つまり、四日以内に新月を見つけなければ、朧は右脚を失ってしまう。


「火車は年老いた化け猫が変化したあやかしだとも言うよ、晴くん」

「……それくらい、知ってる」

「君の得意分野だもんねえ。猫にはまたたび。試しにまたたびでも撒いて呼び寄せてみたら?」


 指についた肉桂(シナモン)を舐め取りながら、冗談みたいなことを言って、「とにかく」と蛇ノ井はへらりと笑った。


「あなたの新月はこちらの常野晴が見つけだします。生死の境をゆがめぬ――それが常野守の役目だから。どうか安心なさって、白平野でお待ちください」



 いくつか新月に関する話をしたあと、狐の朧は蛇ノ井に連れられて帰っていった。朧を助手席の籠に乗せたあと、「ここ最近、常野周辺で火事はなかったようだよ」とサングラスをかけた蛇ノ井が耳打ちする。晴はうなずいた。

 七年前から翅は常野家でともに暮らしている。翅の生家は先代の頃に他県に移ったのだが、夏の間だけは墓参りをかねて、常野へ戻ってきていた。だから翅のことなら、まだお互いろくに歩けなかった頃から知っている。夏に大きな麦わらをかぶって現れる少し変わった女の子は、幼い晴の初恋の相手だった。――その初恋の女の子は今、大きな麦わらをかぶって晴とうれしそうに手を繋ぎ、声をかけてきた老婆烏に、「晴くんの彼女です!」と高らかに宣言して、「でもキスはまだなんですー」と頬を赤らめたり、「その先はさすがにちょっとー」とごろごろしたりしている。張り飛ばしたい。


「あっ、このあたりで狐を見かけました? 黒い毛並の、背中に銀色の筋が入った子です」


 首を振ったらしい老婆烏と翅がまたしょうもない話を始めようとするので、ちょうどやってきた常野西行きのバスに飛び乗った。車内はろくに冷房もかからず、開いた窓からぬるい風が入ってくる。汗の滲んだ首筋をTシャツの肩で拭って、晴は窓の桟に頬杖をついた。


「見つかんないな」


 朧の来訪があった翌朝、常野山の神におうかがいを立てると、新月の身体はまだ常野の地を出ていないとの話だった。そこで、常野のものに話を聞いて回っているのだが、一向に要領を得ない。すでに三日。補修を欠席している晴の進級も、朧の右脚も危うい状態にある。


「はるちゃんは、火車を探してはいないんだね」


  人気のない車内を眺めて、翅が呟いた。


「このあたりで最近火事はなかったらしいから」


 火車なる化け猫は雷を引き連れて現れ、死体を盗む。そのとき、現場では必ず火事が起きるとされるため、新月の件に火車が関わっている可能性は低かった。朧さんは火車にこだわっていたように見えたけれど――。車窓を過ぎ去る景色に、「白平野」の文字を見つけて晴は顔を上げた。点灯した降車ボタンを見て、翅が不思議そうな顔をする。


「朧さんにもう少し話を聞いてみる。足の具合も知りたいし」


 早口で説明して自分の分の乗車賃を払い、晴はバスを降りた。白平野は常野の西にある土地で、名前のとおり平らな芒野が広がっている。朧の住所は、朧の来訪があった翌日、蛇ノ井から送ってもらっていた。


「二丁目の4……」


 電柱の表示板は「二丁目3」で途切れていたが、「こっち」と翅が繋いだ手を引っ張った。じゃがいも畑の隣の竹林に一瞥ではわからない獣道があり、奥へと続いている。しばらく歩くと、視界が開けて半ば崩れかけた廃屋が現れた。


「すいません。常野神社の晴です」


 中へ向けて声を張ったが、返事がない。裏戸を見てきた翅も首を振った。留守らしい。


「はるちゃん。あれ。常世虫がいるよ」

「とこよむし?」


 翅はときどき、こちら側の教科書にも辞書にも書かれていない翅語をしゃべる。そういうとき、翅の睫毛のかかった淡い色素の眸は、どこでもない遠くを見ているのだった。翅に左手を地面にくっつけられると、とたん、小指の先にぞわっと虫の甲殻らしい感触が伝わった。常世虫、ともう一度言って、翅は軒下を指差す。


「あっちに向かってる。常世虫は、死骸にたかるの」

「死骸に?」

「追う?」


 家主である朧が帰ってくる気配はまだない。気が咎めたものの、心配のほうが勝って、庭から母屋へ回った。見えない晴にはわからないが、軒下には数十という常世虫が集まってきているらしい。翅はけろりとした顔をしているけれど、想像するとぞっとする光景ではある。

 うらぶれた縁側には、花蝶の細工のほどこされた文箱が置き放しにされ、文が数通こぼれ出ていた。風に飛ばされそうになった一枚をつかんで文箱に戻そうとすると、文尾に新月の名を見つける。「朧さんへ」から始まる水茎はたおやかで、とりとめのない日々が穏やかに綴られていた。……庭の芙蓉がもうすぐ咲きます。ぼくの身体はもうもちそうもありませんが……

 ブブブブ……

 ポケットの端末が震え、晴は文から顔を上げた。画面には「似非サポーター」の表示。通話ボタンを押すと、「元気ですかあ、はんぱものの晴くん」と悠長な声がした。


「蛇ノ井。何の用だよ」

「三日経っても君から音沙汰がないから、心配して連絡を寄越してやったんです。どうかい。狐は見つかりそう?」

「今探してる。他に用がないなら切るぞ」

「あーあーちょっと待ってって。これだから最近の若者は気が短くてさあ。サポーターから一個ヒントをあげる。朧サンはさあ、新月を常野山にかえす気なんてないですよ。はなから、くれてやるつもりで右脚を繋いだんだ」

「くれてやるつもりで?」


 端末を耳にあて、晴は軒下をのぞきこむ。薄暗がりで奥は見通せないが、刺すような腐臭が押し寄せて顔をしかめた。思い切って腕を差し伸ばすと、こつん、と固い木の角に指があたる。


「ねえ、晴くん」


 蛇ノ井は喉を鳴らして嗤った。

 皮肉げに口端を歪める蛇ノ井の顔が晴には見えた。


「女の執着ってこわいよねえ?」


 通話を終えた端末をジーパンに突っ込み、晴は軒下から指があたった箱を引き出した。翅が眉根を寄せる。現れたのは、赤子が入るほどの大きさの棺桶だった。蓋を開けると、背中に銀の筋がある狐が息絶えていた。死んだ新月である。


「でもどうして朧さんの軒下に……」

「はるちゃん!」


 翅に強く手を引かれ、それでようやく晴は背後にぽつんとたたずむ狐に気付いた。朧だ。晴にはただの狐にしか見えないが、毛を逆立てて歯を剥き出す姿は友好的とは言い難い。


「『もう見つけてしまったのかえ?』って朧さん、言ってる」

「どうして、新月さんの身体がここにあるんだ?」

「『だって、新月さん、死んでしまったのだもの。でも、冥婚の契りを結べば、新月さんはこちらにとどまってくれる』」


 常世に半ば属する右足を引きずりながら、朧が近づいてくる。

 朧は語った。冥婚の契りを結んで不当に新月をとどめること、常野山の神が赦すべくもなかろうが、常野守が介入したうえで火車の仕業と断じれば、その魂は永遠に冥婚した朧のもとへとどまるだろうと。


「『さいわい、今代の常野守ははんぱもののなりそこないだから。これはうまくゆくだろうと』」


 気遣わしげに晴をうかがいながら、翅が言った。もう聞き飽きた言葉であるはずなのに、歯がゆさから、晴は奥歯を噛む。

 確かに晴は常野の血を引くのに、常世に属する者たちが見えないし、聞こえない。時を下るうちに常野の血が薄まったからだろうと蛇ノ井は言っていた。あるいは、山の神の恩寵に陰りが見え始めたのか。どちらにせよ、凶兆にはほかならない。けれど、それでも、晴は常野守になることを選んだ。このまみどりの土地に母も祖母もねむっている。そして、見送りたいひとがいるから。


「冥婚の契りは七日のさだめ。新月さんの魂は常野のものになる。朧さんにはかえせない」


 棺を抱き寄せ、晴は言った。


「『返されよ』」

「できない」

「『そなたなら、わかってくれると思ったのに。わたくしと同じそなたなら』……晴ちゃん、まずいよ。朧さん、とっても怒ってる。このままじゃ――」


 さなか、朧の前脚が地を蹴った。翅の身体をするん、とすり抜け、晴のほうへ飛びかかる。狐といえど、中型犬くらいの大きさはある。勢いに押されて背中から縁側にぶつかるが、棺は離さない。朧は晴の肩に両足を置いて牙を剥いた。細い鳴き声。言葉が聞こえなくたってわかる。かえせ、かえせ、かえせ。そなたなら、わかるはず。わたくしと同じそなたなら。晴は吐息をこぼした。


「だからだよ!!!」


 引き剥がそうとあいているほうの手で身体をつかめば、額を前脚で引っ掻かれる。むき出しの腕に噛みつかれた。くっそ、腹立つこの、


「あほうぎつね!」


 怒鳴りつけると、首根っこをつかんで引き剥がし、喰らいつこうとした口をひっつかむ。


「一緒にいるのに、触れることもできない。自分ばっか歳食ってどんどん離れてく。なのに、能天気なふりをしてへらへらわらう馬鹿! わかられてたまるか。こんな思いもう誰にもさせたくないんだよ!」


 鋭い声を上げ、朧は後方へ飛びすさった。「はるちゃん、はるちゃん」と翅がめずらしく憔悴した様子で駆け寄ってくる。


「あのね、はるちゃん、見えてないからわかんないかもしれないけど、今すごいものと取っ組み合いしてるの。狐だけど狐じゃないの。素手でライオンと喧嘩しているようなものなの。わかる?」


 晴の手を引っ張ろうとした翅はふいに表情を変えた。右脚を擦って近づく朧が、翅には別のものに見えているらしい。


「はるちゃん」


 晴を背にして朧の前に立つと、翅は言った。


「はるちゃんは翅が守るからね。翅ははるちゃんのお嫁さんだから、ないじょのこう、しないと」

「翅」

「翅はばかだから。それしかできないから」


 へにゃりと能天気にわらう。昔からそうだった。翅は虚弱なくせに、いつも率先して無謀なことばかりする。幼い晴が犬に追いかけられていると、冷却シートをおでこにくっつけたままでも飛び出してきて、傘一本で立ち向かった。それでひっかき傷を作ったって、えっへっへ、と誇らしげにわらう女の子だった。翅は。でもそういう翅は。もういない。


「はね!!!」


 左の小指を頼りに、ぎゅっと華奢な身体を抱え込む。見えないし、聞こえないから、晴には何がどこから来るのかぜんぜんわからない。わからないから、せいぜい翅の手とか足とか、どこも自分からはみ出ないようにして、目を瞑るだけだ。山から吹き降りた風で、いっせいに紙が舞う。視界端によぎったそれらが新月と朧の恋文であったことには、――あとで気付いた。



 *



 常野翅が九歳で死んだのは、今から七年前のことだ。

 翅は生来ひとあらざるものたちを見て、声を聞ける代わりに虚弱だった。あらゆるものを身体に憑かせて少しずつ衰弱していき、たった九年で死んだ。葬儀は晴の父がやった。常野では、若い男女が死した場合、相応の者をつがわせて送る冥婚の風習がある。晴は翅の冥婚の相手だった。翅の右の小指と、晴の左の小指と。絡ませ、翅の魂をなだめて常世に送る。そのはずだった。

 瞼裏に蘇るのは、雷鳴である。天が裂けんばかりの激しい雷鳴だった。そして稲妻が光り館に落ちた瞬間、ぱっと炎が燃え上がり、翅の身体はなくなっていた。からからからから。回る車輪の音。ざんねん、もうかえらない。火車の声をどこかで聞いた。


 額を撫でるぬるい風を感じて、晴は目を覚ました。

 畳の上に横たわる晴のそばでは扇風機が弱風モードで回っている。からからから。夢に出てきた不穏な音はプラスチックの羽根からしていたらしい。けだるい疼痛を発するこめかみを押して、包帯の巻かれた腕を光のほうへかざした。

 火車に身体を盗まれたことにより、翅は常野にかえれなくなった。翅の魂はうつし世にとどまり続け、七日間のことわりを破った晴の小指はあちらと繋がったまま、動かないし、うつつのものは何も感じなくなった。

 褥のそばでまどろむ翅は、かげろうのように透けている。晴に翅だけが見えるのは、冥婚の繋がりのためだという。頬のあたりへそっと手を伸ばしたが、ふわりと小指以外は触れられずにすり抜けた。晴は細い息をこぼしたあと、左の小指を翅の右の小指に重ねる。それだけが。こちら側の晴とあちら側の翅を繋げている確かな感触。たった、それだけ。


「はるちゃん?」


 目をこすった翅から手を離して、晴は障子を開く。棺を抱えた朧が縁側にひとりうずくまって待っていた。



 翅の話では、あのとき朧は確かに晴を襲ったのだが、晴にぶつかったとたん、急に禍々しい気が抜けて、もとの朧に戻ってしまったのだという。散らばった恋文を見た朧が正気を取り戻したのか。あるいは、新月の魂が何かを囁いたか。翅は機嫌よく鼻歌をうたいながら、だって晴ちゃんはとても強いんだもの、と胸を張る。見えないし、聞こえない。わるいものは何も寄せ付けない。ぶつかると、わるいもののほうが消えちゃうんだよ。


「朧さん。いいですか?」


 晴たちは今、常野山の入り口に立つ七種の樹が絡み合った巨木の前に立っている。巨木のうろは、死者のゆく根の国へ通じるといわれ、新月の身体と魂はこうしてうつし世を離れ、常野へとかえる。正しい道で新月を送るのは、常野守の大事な仕事だ。このときばかりは晴も白の浄衣を着て、かしこみかしこみ常野山の神に報告申し上げる。だが祭詞を作文するのはとても難しいので、晴の場合は現代語である。朧がえっという顔をしているが、現代語である。常野山の神様もそろそろ時代に適応したっていいんじゃないか。

 すべての報告を終えて、最後に新月の魂がやすらかなることを祈願する。ふいに山の頂から、一陣の風が吹き下りた。七種の樹がざわめき、緑陰からこぼれた一筋の光がうろの深い闇へ射す。朧はしばらくうろを見つめていたが、やがてこうべを垂れると、山のほうへとかえっていった。白平野に戻ったのだろうと翅が教える。晴に礼を述べていたとも。


「帰るぞ」


 暑苦しい冠を取り去って、晴は朧を見送っていた翅の手を引いた。ふもとの神社まで、緩やかな坂道を歩く。噎せかえるような濃緑の夏草。陽炎ののぼる道に落ちた影はひとつきり。


「はるちゃんのあれ、おかしかったなあ。あほうぎつね! あのとき朧さん、びっくりしてたよ。祭詞のときとおんなじ顔」

「うるさいな」


 麦わらをかぶった翅は白いワンピースをひるがえし、サンダルを鳴らして晴を振り返った。その視線がまみどりに染まる常野山へ向かう。長い睫毛を伏せて、翅はふにゃりとわらった。ふだんは晴に合わせて十六の姿をしている彼女に、一瞬懐かしい幼馴染の面影が重なり、消えた。


「はるちゃん、わたし。朧さんの気持ちがわかる」

「翅」

「わかるよ」


 風が吹き抜けた。

 自分の髪だけをかき乱して去る風を追う、そういうとき晴は。ときどき、むしょうに息を喘がすほどくるしくなってしまって、晴は、翅を。


「翅」


 胸を炙った衝動の代わりに、だから晴は翅へ小指を差し出した。


「おまえみたいな奴、かならず離縁してやるから」

「はるちゃん」

「だからもう、そういう顔すんなよ」


 あちら側とこちら側。生死の境を歪めぬは、常野守の役目。

 それが常野。

 このまみどりの土地に、かえしたいひとがいる。


「はるちゃんのいじわる」


 翅はわらった。夏の光に溶け入るようだった。

 晩夏。

 晴れ渡った空の下、右の小指と左の小指を絡め合う。


「ゆーびきりげんまん、うそついたら、はりせんぼん、のーます」


 あちらとこちら、踏み出しえぬ、みどりのはざま。

 なれど、たまゆら重なる、ひとときの。


「ゆび、きった!」


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