赤い海

@Mralice

第1話

 ふと、目が覚めた。鈴虫の音が聞こえる、蒸し暑い八月初旬の夜だった。妻藤紫音は、直感的にもう今日は眠れないだろうと感じ、台所に向かった。冷蔵庫から飲みかけの牛乳パックを手に取り、コップに注ぎ電子レンジにかける。オレンジ色に光りながら、ゆっくりと回るコップをじっと見つめて考えた。間宮柊のことを。

 一週間前、紫音は数少ない大学内での友人、紺之姫唯に誘われ、しかたなく大学生協主催の就活セミナーに参加した。そこで、姫唯の近くに座っていた筑後大の柊と、その友人の菊田汰一の四人で、就活対策としてグループディスカッションが行われたのだ。紫音はこの手のディスカッションが大の苦手で、殆ど一言も喋らずに終わったが、社交的な姫唯と柊がこれも何かの縁だからと、それぞれの連絡先を交換しあうことを提案し、夕飯も四人で食べようということになったのだ。それからずっと、柊のことが気になっている。

「しおー!おはよっ。」

「あ、きぃちゃんおはよう。」

 今日も姫唯は、男と一緒に登校している。姫唯は目が大きくとても可愛らしい顔立ちをしており、尚且つスタイルも抜群で非常にモテる。今は特定の彼氏はいないらしいが、夜の相手はたくさんいる様で、いつも夜遊びした次の朝は、その男に駅まで送らせているのだ。紫音は、相手に干渉するタイプではないので、姫唯が毎日違う男と登校していても、なんとも思っていない。勝手にすればいい。だが、今姫唯にバイバイっと手を振って、早稲田駅に消えていった男の後ろ姿にものすごく、見覚えがある。

「今の男の人。間宮君じゃないよね。」

「えっ。違うよー!きぃは年上の人としか無理って言ったでしょ。」

「そっか。なんか似てる気がしたからさ。」

 紫音は、姫唯が正直者とはまるで思っていないが、自分の気持ちが真実を知らない方がいいと言っていたので、姫唯の言葉をそのまま受け入れた。

「そういえば、菊ちゃんがまた四人で会おうっていってたよ!夏だし海でBBQでもしようってさ!菊ちゃん、サーフィン出来るんだって!」

 確かに、菊田はザ・スポーツマンという体つきで、顔立ちも整っている。所謂、海の男という感じだ。柊も背も高く体つきもいいが、何となく柊は冬が似合う。名前の影響もあるのだろうか。

「いいね。私も行きたい。実家の和菓子持っていくよ。」

「…海に和菓子?やめた方がいいよ、それ。」

「でもチョコレートとかだと、暑くて溶けちゃうでしょ?和菓子は解ける心配ないからさ。オススメなんだよ。」

などとくだらないことを話しながら、次の授業が行われる学内で一番広い大講堂へと向かう。紫音と姫唯の二人が通う大学は、国内でも一二を争う有名私立大学だ。この日の授業は、有名な著名人が行う講義とあってとても人気のある授業だ。今日の講師は、もとサッカー日本代表監督の佐田部守の講義だった。

「おはよう。」

二人がちょうど大講堂の一番後ろの席を確保した時、河内健吾が話しかけてきた。

「あれ、ケンゴこの授業とってんの?今まで一回もあったことないけど。」

「とってないよ。しおちゃんがこの授業とってるって聞いたからさ。会いに来たんだよ。なんだよ、紺之もとってたのかよ。」

姫唯と健吾は、大学付属高校出身で野球部主将とマネージャーという間柄だった。風の噂で聞いたことだが、二人は元恋人らしい。しかし健吾は今、紫音にベタ惚れで、今日のように紫音のいる授業に参加したり、突然プレゼントを持ってきたりする。以前、紫音が熱を出して授業を休んだと時、市販の風邪薬と熱冷ましのシートを大量に持って、紫音の実家の和菓子屋を訪れた事もある。はたから見たら、ストーカーじみた事もしているが、健吾の育ちの良さそうな雰囲気と、話の面白さから、紫音もその両親も、健吾のことを嫌いになれない。むしろ母の由美は、付き合っちゃいなさいよ、あんないい子なかなかいないわよ、と交際を進めてきたりする。紫音もまんざらではないが、姫唯がまだ健吾のことを忘れられないのではないかと思っており、一歩前に踏み出せない。

「は、キモ。しお迷惑してるからやめたほうがいいよ。そういうの。バカじゃないの。」

姫唯は明らかに不機嫌な態度でぶっきらぼうに応えた。

「てかお前、今日朝一緒にいた男誰だよ?一昨日みた奴とはまた違う男だったけど。お前遊んでんな〜。」ニヤニヤしながら健吾がいう。

「あんたに関係ないでしょ。」

紫音は、姫唯が毎朝違う男と登校してるのは、健吾へのあてつけだと感じていた。そんな事しても、逆効果だと紫音は思うが、乙女心は複雑だ。

「二人とも相変わらず仲良しだよね。」

紫音はのんびりと言った。

「私、男友達とかいないからさ、そういう風に言い合いのできる友達っていいなって思うよ。」

「しおはそういうところがあるよね。分かってるように話すけど、ものごとの本質が見えてないの。」

姫唯はますます不機嫌になり、紫音にまで当たってきた。ああ、めんどくないな。紫音は、自分の感情を人に押し付ける、姫唯のこういう態度が大嫌いだった。

「なんでそんな言い方すんだよ。しおちゃんを困らせてんのはどっちだよ。」

なんて答えるか迷っていると、健吾が助け舟を出してくれた。昔、この二人はどういう付き合い方をしていたのだろう。何があって、別れるという決断をしたのだろうか。突然、そんなことが気になったが、聞くとしても今ではない。

「いいよいいよ。気にしてないし、実際そうかもしれないしね。二人のことまだあまり知らないのに、変に口出ししてごめんね。」

「しおちゃんが謝ることじゃないよ。」

よ。しおちゃんを困らせてんのはどっちだよ。」

「ごめん。」

姫唯はそれだけ言って、居心地が悪そうにスマートフォンをいじり始めた。

 健吾と紫音が出会ったのは、半年前の大雪の日だった。その日は都心部にも二十センチもの雪が積もり、大学内でも雪だるまを作って遊んだり、無邪気に雪合戦をしている生徒もいた。そんな光景を、図書館の窓からぼーっとみていた紫音に、健吾が話しかけたのだ。話しているうちに、姫唯が共通の友達だとわかり、すぐに打ち解けることができた。共通の話題があるというのは人を近づかせる。

「あ、しお。菊ちゃんが、今日暇?って。メール来た。しおにもきいてみてって。」

さっきまでのいざこざが無かったかのように、姫唯が話しかけてきた。すぐにカッとなる姫唯の性格は嫌いだが、こういう風にすぐに元に戻るところがこの子の魅力だと、紫音は感じている。

「あ、うん。今日はバイトもないし。授業もあとは三限だけだから、四時くらいには暇になるよ。」

「おっけー!多分飲み会の誘いだよ。柊も来るんじゃないかな。」

自然に間宮柊のことを呼び捨てにした姫唯に、紫音は驚いた。

「あ…そうだよね。楽しみだね。」

「なにそれー。合コン?しおちゃん…、心配なんだけど。」

健吾が彼氏のようなことを言う。

「あはは。ただの飲み会だし、健吾君に心配してもらう事なんて何もないよ。」

紫音は彼氏ぶる健吾が可愛く見え、なんだか笑ってしまった。と同時に柊に会える事に少し心が弾んでいる自分に、驚いてもいた。自分は誰が好きなのか…。この頃はまだ深くは考えてはいなかった。

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