孤毒

 僕が吐く言葉は毒になる。

「ねぇ、今日こそ言ってくれるかしら?」

 だから今日こそ今日とて洩れるのは汚い言の葉ばかり。

「似合ってない。その青はお前には派手過ぎる。脚の出し過ぎだ。はしたない。汚物だ。そんな物を僕に見せるな」

 昨日新調したと思しき麗しいドレスを見事なまでに着こなす女性に暴言を。空っぽの上っ面すらない無慈悲な文言。

 あまりにも自信に溢れていたのだろう。彼女の宝石のように丸く輝く瞳に飴玉の如く涙が溢れ出し、みるみる流れ頬を伝う。

「今日もあなたは酷い人」

 ほんのりとつけられた化粧を不気味に流しながら、ある意味悍ましい笑顔を浮かべて女性は走って逃げた。小さな溝にヒールを食い込ませかけたが、僕が助ける訳も無く、小さく無様な姿はそそくさとその場を立ち去った。

 辺りには元通りの静寂が訪れ、夜の帳に小さな虫たちがチロリチロリと合唱を始める。いや、随分と前から合いの手をやっていたのかもしれないが、僕には気にもならない事だ。

 だってそうだろう。

 こんなにも滑稽なのだから。

 彼女が無様だって? どの口が言うのだろう。

 僕は強く拳を握りしめ、己が頬を殴った。

 鈍い音。骨と肉が擦れたような擬音がした。当然痛かった。僕はマゾヒストではない。痛ければ辛いし、泣く。酷い人間でも、涙は出るものだ。

 マゾヒストでは無いが、エゴイストだ。人間が自分勝手とはよく言うが、僕はその中でも上位に行けるんじゃないだろうか。

 僕が吐く言葉は毒になる。

「汚い、穢らわしい、みっともない、みすぼらしい」

 汚い言葉。侮蔑、見下し、軽侮、何て哀れな言葉達。するすると僕の口から漏れ出しては空気に混じって消えていく。

 けれど僕の心には突き刺さり続けた。ぐさりぐさり。いくつもいくつも。行く宛のない軽蔑の言葉たちはすべて帰ってくる。

 では、行く宛のある言葉は何処へ行く?

 考えるまでもない。他でもない僕が贈り続ける凶器の矛先は、全て彼女へ向いている。

 彼女と話し始めてどれほど経ったか。数日だった気もするし、数年だった気もする。後者であったら、否、両者であっても、彼女は僕以上にその剣を深く深く突き立てられているはずだ。

 彼女の今日の身姿は、僕が今まで散々嫌だ嫌だと言い続けた悪口をすべて回避した完璧な衣装をまとっていた。つまり、僕の戯言貶し言を全て受け止めたということだ。

 全てをしっかり突き刺して。

 どれほどの痛みだろう。僕が考えられるはずも無い。考えた所で浅はかだ。彼女の心を殺しているのは、僕だ。

 唯わかるのは、彼女の痛みは拳一つではないということ。

 再び拳に力を込め、今度は反対の頬を殴りつける。ガスっ いい音が鳴った。自己防衛でも働いているのか、首が曲がることはなかった。どうせ明日にはケロッとしている事だろう。

 僕が吐くのは毒にしかならない。

 汚い言葉、貶す言葉、傷つけるしかない言葉。全てが毒物。それしか出せない。

「君は――あんなに綺麗なのに」

 涙が込み上げた。泣きたいのは彼女の筈なのになんて烏滸がましいことか。

 僕が吐くのは毒しかない。

 毒しか吐けない。

 僕が嗚咽混じりに漏らした素直きれいな言葉は、一つの色を持ち始め、次第に黒色へと染まっていく。一塊の霧になったかと思えば、ゆっくりと地面を腐食し始めた。

 僕が、やってしまった! と気付いた時には青々しく茂っていた雑草たちは焼け爛れ、原型はない。地面すらも溶岩の如き泥状態にされ、戻る事はない。

 これは毒だ。何もかもを溶かし、焼き、二度と戻らぬ異形の物へと変質させる、恐ろしい毒。綺麗な毒だ。




 いつからだったか、母親の綺麗な目を好いた。僕も同じ目だったから。透き通った碧眼、絹のような髪糸、父親が妬くくらいにべったりだった。

『息子ばかりにかまけるとは、俺はもうどうでもいいのかい』

『張り合わなくてもいいじゃないですか。私の愛する夫はあなただけですよ』

 そんな熱愛を生まれて数年にして目撃していた、まさに円満な家族。裕福とは言い難かったが、当たり前の日常を当たり前に過ごせる幸せな毎日だった。

 とある日に、僕はいつもと同じ様に青い目を褒めた。好き好き、大好き。子供の拙く少ない語彙でひたすらに。今頃何を言っていたかなんて細かいところまで覚えていないが、母親が喜ぶ言葉を沢山言った。一生分の賞賛を送った。その目が、その目を持つ母親が、その目を授けてくれた母親が大好きだったから。父よりも慈しんでいると子供ながらに訴える為に。そして、愛されるように。

 そうして、ありったけ祝福の言葉を受けた母親の目は、ゆっくりと凹凸が生まれ、次第に爛れ、水飴のように溶けていった。

 金切り声が劈いた。それが母親の物だと頭が理解したのは、歪に蠢く体が倒れ伏し、よく梳き遊んでいた黄金の髪が乱雑に叩きつけられた後だった。

 優しかった母親の姿など微塵も感じられない悶え苦しむ生き物を、父親が駆け寄って必死に助けようとした。僕はそれを、只見つめた。大丈夫、父がいる、父はいつだって優しく厳しく、何でも出来てしまう凄い人なのだ。自分に言い聞かせるように。

 身勝手な恐怖で震える唇から父親に励ましの言葉を送れば、今度は父親の艷やかだった黒髪がぼろぼろと崩れた。母親を支える逞しい腕、僕と遊ぶ為に駆けずり回った脚、頭。崩壊は柔和な笑みを浮かべる顔すら飲み込み、阿鼻叫喚の中で得体の知れない液体に成り果てた。

 吐瀉物のような残骸と見た事もない女の人形を眺めながら、ようやく僕は気付いた。

 僕の言葉が、父と母を奪ったんだと。

 人に与えられた美しい言葉を使い切った僕に、神様が罰を与えたのだと。

 それからの毎日は、使い古されたフィルム越しの荒れた風景。早回しのコマ送り。ノイズが走る映像を何度も繰り返し、覚えるのも嫌になった。

 あの光景を目の当たりにした何人かは、あることない事出鱈目に吹聴して回った。僕は親戚をたらい回しされた。本当のたらいより、より一層滑稽に回れたのではないかと思えるくらいだったかも。

 僕は、美しい言葉を口にしなくなった。最初は絞り出すのもやっとだったのに、日ごと重ねていけば、いつの間にやら呼吸をする如く滝の流れで溢れゆく。不気味に思われるよりはましだと、嘘を吐き続けた。気づけば、僕の周りには誰も無くなっていた。たらい回しされるのも当然の事、計画通りだった。

 誰もいなければ、僕は、嘘を吐く事も、傷付ける事も、大切な人を失う事も無い。

 だと言うのに、僕が最後の最後、最も遠い親戚とも呼べない知人の知人程度の、耳は遠く、近眼と遠視が相成ったしわがれた老父の下に預けられた時。

 丁度、月も星も覆われた曇天の夜。気慣れぬ寝巻で体を包み、寝付けなさを木枯らしのせいにして、庭を散策した。

 そして、息を呑んだ。

 擦り切れた映画の中で、そこだけが現実的に、残酷に、美麗に、克明に、一人の少女を輝かせていたから。

 まるで蝋人形。彼女が不意に振り向いた瞬間は、心臓が口から飛び出すかと感じた。

 月明かりも無い暗がりで、白い一枚の布を巻いただけの服であるのに、翻る裾は羽の様に踊り、ワンピースが喜んでいるように見えた。赤く引いた唇が艶やかに動く。

「初めまして。引っ越して来たの?」

 こんな時間にここにいる理由、どこの誰なのか、疑問符は多く浮かび上がった。それくらいであれば、尋ねることくらいできるのだから、勝手に口が動いた。

「泥棒かなにか?」

 まあるい宝石が、大きく見開かれたのをよく覚えている。その光は、今にも零れ落ちてしまいそうなほど、潤んでいたから。あぁ、やっぱりこうなってしまうんだ。僕は、頭の片隅で肩を落とした。

「あら、ごめんなさい。ここにはおじいさんが一人きりだと聞いていたから。宵刻にお邪魔させて頂いているの」

 霙のように眉を垂れ下げ、申し訳なさそうに琥珀の脇髪を指先で掻き上げる。そんな動作すら、つい目で追いかけてしまう。なんて未練がましく汚いのだろう。こんな僕が、どうしてまた触れ合えるなんて微塵とも思えてしまったのだろうか。

 そうして、僕は藍色を眺めながら背を向けた。

「人の家に夜な夜な入るとか、不気味だ。やめろよ、視界に入るな。白が目に痛い」

 独りよがりに毒づいて、暗闇を後にした。彼女がどんな表情か知りたくも無いけれど、大体わかっているつもりだったから。

 扉を閉める際、ちらりと覗き見た天使の色は、何色も無くこちらを見ているようで気まずくなり、あっさりと閉めてしまった。これでまた『ひとり』になれる。

 其れなのに、その翌日から彼女は毎晩のように僕の仮家に現れた。

 まるで僕が吐き出す毒に、甘んじて浸る、狂気染みた娯楽の様に。




 僕が吐く言葉は、どれもこれも毒にしかならない。

 今日も今日とて、やはりと言うべきか、然程大きくない庭の森端に、淡白色の衣服を着こなす女性が一人、ぼんやりと言う風に空を見上げていた。

 僅かばかりに短くなったロングヘアが、そよ風に撫でられ、月と星々の幽かなる光によって、神秘的空間を作り出している。

 当然に僕は今日も今日でも道化師ピエロを演じる。

 若干の立て付けの悪い扉を開けば、悲鳴の如き金具の軋む音が夜空に響き、僕の訪れを彼女に伝える。彼女はそれを待ち望んでいたように、夕陽せきように頬を染め、薔薇が花開いたように顔を明らめつつ振り向いた。

 それは色とりどりに咲き誇る庭園のどの花よりも、可憐で、儚い。少し悪戯に風に煽られでもすれば、攫われてしまうくらい。

 そうして、彼女は決まり文句を言うのである。心底から楽しみにしているように。

「ねぇ。今日こそ、言ってくれるかしら?」

 残酷に。

「……似合ってない」

 僕は顔を背けた。傍らに野生化しかける花々を眺めるふりをして、何処も見ていなかった。何処を見ても、それらは僕にとっての毒。虚しさだけが塵積もる。いっそ切り落としてしまいたい。そんな事が出来ないとわかっていながら、願わずにはいられない。

 どこまでも純粋に美麗で、そこに存在するだけで華を持つとしても。僕にだけは応えることができないからこそ、触れたくない。触れてはいけない。

「貴方は、今日も酷い人」

 見なければいいのに、潤んだ声に振り返った。ダイヤモンドが溢れ出しては、煉瓦敷きに砕かれている。僕の毒で、宝石箱が溶けていく。

 また。幾度も幾度も。遥か前に両手の指では数えられなくなった。無防備無垢な少女に、ナイフを振り翳さして。僕はどれほど真っ赤に染まってしまったのだろう。許されるべくも無い。許されない。

「泣くなよ」

 傷付くのなら何処かへ行ってしまえばいい、僕から離れてしまえばいい。漏れるの無責任な言の葉。僕は、彼女の毒にしかなれないんだ。

 それでも彼女は、泣いたまま笑った。心臓に突き刺されながらも、崩れそうな微笑みで。

「ねぇ」

 応えなかった。

「ねぇ」

 たとえ応えたとして、それは同じ場所に剣を突き刺すだけだから。

「ねぇ」

 少女は小さく僕の裾を引いた。振りほどけば良いものを、僕はだらしなく力を抜いただけにした。その上、烏滸がましくも返してしまった。

「……何」

「私って、きれい?」

「全く」

 綺麗でなくて何という。

「私って、かわいい?」

「自意識過剰なんじゃないの。微塵も思わない」

 髪の毛を人差し指に絡める、柔らかな声、僕と同じ色の瞳、何処をとっても可愛らしい。

「私と話すことは、たのしい?」

「ああ楽しくない。全く持って楽しくない無意味なものだ」

 言葉だろうと、文字だろうと、君を殺すことしかできないのだから。

「ねぇ、君って」

 白い細指が離れ、僕の片頬に触れた。

「何故、そんなに泣いているの?」

「は?」

 本当に意味が解らなかった。とうの昔に涙なんて枯れ果てていたが、思わず目元に指をあてる。当然だが、そこには平然と乾いた肌があるだけ。

 何を言っているんだ。そう返そうとした言葉を、遮られる。

「今日も、昨日も、一昨日もその更に前も。貴方はいつも泣いていたわ」

「そんなこと」

「ねぇ、明日。私は死んでしまうそうよ」

 言葉が出なかった。口上句と同じように言葉を放つ彼女は、いつも通り泣き出しそうな顔で笑っている。

「今日も、昨日も、一昨日も其の更に前も。いつか消えてしまうなら、椿の花の様に一瞬で。ここに何も残らないように消えてしまいたいと思っていたわ。それが、一番の幸せだと思ったの」

 彼女は、何を言っているんだ。僕は狼狽するしかない。まるで、僕の罰を知っている口振りで。

 もう誰にも知られたくなかったのに。

「そ、そんなこと、僕には関係ない」

「そう。だから、貴方に謝りたいの。泣かせてしまったことを。悲しませてしまったことを。貴方の優しさを裏切ってしまった事を」

 誰も傷つけたくないから、わざと遠ざけていてくれた不器用な優しさに。

「私が、死んでしまう前に」

 夜中にも関わらず鐘が鳴り始めた。頭の中を反芻して、吐き気がする。気付けば僕はへたり込み、彼女が心配そうにのぞき込んできていた。その眼に、曇りはない。全て本当だと告げているのだと、根拠もなく悟った。

 信じられなかった。信じたくなかった。信じたい自分もいた。

「……そんなに生き急いで、何になるんだ」

「最初から決まっていたことだもの」

「本当に死んでしまいたいと思っているわけ?」

「貴方は本当に優しくて、本当に酷い人」

 少女は幼気に破顔した。僕は、馬鹿にするような顔しか出来なかった。彼女の言葉が本物なら、本当に、僕はどうしようもない、酷い奴だ。

「ねぇ。今日こそ言ってくれるかしら?」

 そう言う彼女も、酷い奴だ。

 結局、僕はどうしようもなく愚かでエゴイスト。こんな僕に罰が下されたのは、当然の報いだったのかもしれない。

 彼女は可愛らしい薄青のワンピースと、灰色に包まれた細い足、整えられた髪からは、仄かに花の香りがする。それらはどれも心地よく、切なく、苦しく、愛おしい。

「君は――」

 重い唇をゆっくりと動かして、言葉を紡ぐ。これが、今の僕に出来る、唯一で最後の温もり。

 硬く目を瞑り、そして開いた。緩慢と少女を真正面から見ると、心底から嬉しそうに、幸せそうな顔をしている。こんな僕でも、それを作り出すことが出来た。

 不意に、目が窪んだ母親が浮かび上がった。

 骸骨と同化しかけたその頭は悍ましく、僕を責めていた。

 父親が、訳の分からないどろどろとしたものから呻いていた。

 許されない。許されてはいけない。

 許されたくない。

「僕は、僕が『好き』だ」

 視界が大きく歪んだ。彼女が大きく目を見開いて何かを叫んでいた。どうして、と繰り返しているらしかった。

 どうして。そんなの、簡単な事だ。

 ――彼女には、最期まで花のままでいて欲しかった。

 ああ、なんてエゴイスト。僕は自嘲しながら、重くなった体が地面に倒れるのを感じた。手足の感覚は消え失せ、角度がおかしい視界に片面に泥水が広がるのを見る。駆け寄る彼女の背後、向こう側で、幸せだったころと変わらぬ両親が立っている。

 僕の言葉は毒にしかならない。それは望んだものではなかった罰。けれど、彼女を変えてしまう事は、僕が毒になってしまうように思えた。

 彼女は僕を恨むだろう。けれど、美しいままで彼女はいるべきだ。そうであって欲しい。僕が触れていい宝物ではなかったんだ。それなのに、色の無い景色で、彼女は泣いていた。もう泣かせることはないはずなのに。

 僕の言葉は毒にしかなれない。僕は誰も傷つけたくない。もう、一人で良い。これで漸く、誰も傷つけない、独りになれるんだ。

 それでも未練がましくエゴイストの僕は、少しだけ。ほんの少しだけ、唇を動かした。残っているかも分からない口を動かした。

 きれい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る