ミルクアイス

 煩い。


 熱い。


 ドアを開けた途端に押し付けられた湿気帯びた熱気、劈く様な鳴き声に、思わず顔を顰めた。

 今朝方片耳にした、観測史上最高温度を今年も更新した、と言うくだらないニュースが脳裏をよぎりつつ、熱された空気の中に身を投じる。

 それ程汗腺が広くない筈なのに、噴き出す如く勢いで新品のTシャツを濡らしてく。


「だる……」


 額にも滲む汗を腕で拭い、共同階段を下りた。

 日陰でさえ蒸し暑いと言うのに、太陽の目下に出れば然もありなん。まるで目玉焼きの気分だ。

 早速頭をもたげ上げることも憂鬱になりつつ、数少ない日陰を占領する駐輪場から愛用の自転車を引っ張り出した。ハンドル、サドル、随分と湿気を吸い取ったようで、触るだけでも気持ちが悪い。

 今日だけで年齢が一気に老けるだろう。

 さっさと用事を済ますべく、俺は淀みを切ってペダルを漕いだ。

 用と言っても、さりとて大したことではない。

 避暑になる様にと深緑地沿いの人道を通っていれば、住宅街にひと際古ぼけた木造屋根が見えた。

 入り組んだ裏道を通り抜け、比較に広い行き止まりに向かった先に、自転車を適当に止める。鍵などかけるまでもなく急ぎ足で軒先をくぐれば、芳香と言うのだろうか、感じた事のない懐かしさを嗅ぎながら、商品棚の奥へと向かう。


「いらっしゃい」


 ひょいっ と、突き当りのレジカウンターから少女が顔を出した。

 冷房を回さない店内にもかからわらず、そこだけ季節が止まったあのように白い。亜麻色のストレートが、ノースリーブから剥き出された撫で肩を軽やかに滑り落ちた。紺碧のビー玉が零れそうな程大きな目が瞬かれれば、ソメイヨシノの唇が綻んだ。


「暑かったでしょう? アイス、食べて行って」


 言いながらカウンターの脇に置かれたクーラーボックスに手を伸ばす。取り出されたのは冬景色を連想させる棒アイス。ミルク味。


「あ、大丈夫っす。今日は姉貴のパシリなんで」


 差し出された商品に、手を振る。しかし、細い雪化粧を仄めかす指がやんわりと押し付けられ、


「常連さんへの、お礼ね」

「……ざいます」


 押し返せるわけもなく、それを受け取った。

 少女は満足そうに目尻を垂らす。

 喉に固唾を詰まらせながら、汗をかいただけの透明なビニールを剥がす。

 無言に手が差し出されるもんだから、ついついその白指に空っぽな袋を渡してしまう。


「……いただきます」

「はい、どうぞ」


 暑さに耐えきれず、しかし気恥ずかしさに先っちょだけに齧り付く。バニラと違った薄味が舌に転がり、知らず知らずに「うまい」と呟いていた。まさか、その言葉で少女がアイスに似た笑顔を浮かべると知っているからじゃない。


「本日は、何をお求めで?」


 短い棒切れが覗いた辺りで、少女が気品ぶって尋ねてきた。

 何処からか風鈴の音が聞こえる、呑気に考えながら、同じくレジの棚に並べられた蜜柑飴を摘まんだ。


「あと、ラムネ一本下さい」

「ふふっ 毎度ありがとございます」


 薄水色のスカートの裾を翻し、カウンターの中、透明な冷蔵庫から、冷気を纏った瓶を丁寧に取り出した。うっかり落としてしまうんじゃないか、余計な心配もどこ吹く風で、少女は焦げ茶のカウンターに置く。

 使い古されたレジへマイペースに数字を打ち込むより先に、飴を並べてポケットから丁度を突きだした。

 少女は、一瞬しばたいたが、直ぐに笑顔で受け取った。


「袋に入れますか?」

「いいっす。どうせ近所なんで。どーせ姉貴のだし」


 彼女は少し困った顔をする。


「怒られちゃうんじゃない」

「だったら自分で行けって言います」

「それもそうね」


 あの我の強い姉貴も度々来る。俺がいない場合だけだが。

 どんな話をしたにせよ、一度顔を合わせれば性格は考えるまでもない。怒り方も想像に安いのだろう。

 身内として恥ずかしくなりながら、言い出したのはもっぱら自分であるのだから。テキトウに持ち出した袋に飴を突っ込み、ラムネを入れる。

 実は扇風機でも回しているのだろうか。振り向いても、棚の隙間に見えたのは、気儘な陽炎。

 もう一度あそこに行かなければいけない気怠さと寂しさに足が重くなりながら、カウンターから離れる。


「あ、待って!」


 驚いた声に、怠惰に動かした脚は容易に止まった。

 つい振り返ってしまうと、少女が囲われた板垣から飛び出している。

 間抜けに口を半開きに待つと、胸元辺りに在る青い水晶が見上げてきた。更に、手を伸ばし、


「寝癖、ついてるよ」


 頭皮に雪が触れた。

 猿にも負けない阿呆な面で、ようやく絞り出された「ありがとう」が喉を通り抜けたのは、少女が一歩下がった後だった。


「急いできてくれたんだ、ありがとう」


 僅か一メートルもない場所で、幽かに紅潮した頬が目に入る。

 風鈴の音が、耳元で聞こえるようだ。


「いや、俺も……すんません」


 寝癖を引っこ抜いてやりたい衝動に駆られそうになって、それを必死に止めている一人芝居を、心中繰り広げる。

 一つ軽いお辞儀をすると、急ぎ早にもつれない様に足を走らせ、自転車へと飛び乗った。鞄は乱雑に入れてしまったが、カランッ としただけだった。

 帰路へ突こうとUターンすると、日陰に少女が出てきていた。

 唇が動いていた気がしたが、蝉が煩い。

 控えめに手が振られていたいたので、会釈だけを返して車輪を回す。

 目を逸らしたはずだったのだが、無意識に向けてしまった目に、少女がはにかんでいた。

 更に赤色が混じっていたのは、それほど熱いと言う事だろう。

 アイスで冷やされた体温が、また熱を得る。棒だけを齧り、こめかみの汗を振り払った。

 さっきまで寝ていたのがバレてしまっただろうか。いや、思わずついて出ただけだろう。考えつつ、ふと、風が吹いた。

 最後に見たら、なんと瓦屋根の端にガラス細工がぶら下げられていた。

 表情が出にくいと言われている俺の顔だ、演技は下手くそ、散々文化祭で罵られた。

 しかし、これはこれで。

 そう考えてしまう己の思考がぶん殴りたいが、残念なことに自転車はなかなか家についてはくれなかった。


―――***―――


「おそーい、おそいそーい。飛び起きて行くって言いだしたのにおそーい! 帰ってきたらしゃちほこの刑に処してやるぞあのクソマセガキ」

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