第19話 歪み

 蜘蛛の巣は死を象徴したものだろう。獲物は糸に引っかかって初めてその存在を理解する。目の前にあっても見ることも感じ取ることができず、その存在を認識したときには、命を絡め取られる寸前。それはまるで末期癌のようで、自覚すれば恐怖にすくみ上がる“死”がジワリ……ジワリ……とにじり寄ってくる。抗う術もなく"死”に絡めとられる。まさに今の状況を象徴していた。


  地面に張り巡らされた線が陽の光にキラキラと煌めき瞬間、眼下にある荒野は大きく波打った。それはまるで大海のようで、大地が剥がれ落ち地面の下の黒い空間が露わになる。バラバラと地面が崩れ落ち地面があるはずの場所にはまるで荒野をスプーンでくりぬいたような底の見えない穴が空いている。それを覆うように被せられた薄っぺらな大地がところどころ膨れ上がり、巨大な黒い槍が徐々に姿を表す。その数は8本。そのどれもが倒木が張り付いている。まさに擬態するための身体。クレーターレベルの空間を地下に作り獲物がかかると姿を表す。ひときわ長く鋭い鎌のような形状の歪な第一歩足が出ると徐々に胴体が地表に姿を表し始めた。その姿をヘレンは呆然と見ていることしかできなかった。

 触肢に続いて上顎と鋭い毒牙。額が姿を表し大小5つの赤黒い瞳がギョロギョロと動き回り少しずつ焦点があい、糸に囚われ動くことのできないヘレンを値踏みするように見つめてくる。

「____くっ……」

目があって初めて恐怖を実感した。眼の前にいる顔だけで6mはある巨大な蜘蛛が30m程先に突如として顔を出したそれは、全くと言って敵意が存在していない。それはつまり、全く興味を持っていないか、俺を巣に引っかかった異物か餌としか見ていない。こちらをじっと見ていることから全く興味がないということはないだろう。だとしたら……____その考えに至ると同時に、全身の毛が総毛立ち嫌な汗が吹き出す。そうしている間にも地面から蜘蛛の巨躯が這い出した。

 本来ならひとまず撤退をするべきところだが、ヘレンは四肢を封じられていた。ここに踏み込んだ時点ですでに目の前にいる巨大な蜘蛛の巣に囚われていた。踏み込んでしまった以上、もはや逃げることは叶わず、ただ喰われるのを待つしかなくなっていた。黑蜘蛛が身動ぎすると同時に後ろの荒野の木々が一瞬のうちに枯れ果て、背中に生えている枯れ木が徐々に生気を取り戻し、緑の葉をつけ始める。しかし、直後その木が一瞬で付けた葉を落とした。

「____??」

 こいつは何がしたいんだ?そんな疑問が頭をよぎった。しかし、その答えはすぐにわかった。四肢に先程までなかった掴まれる感覚が走る。ハッとして自らの足に視線を落とす。

 足には地面から這い出した白い腕のようなものが絡みついていた。剥がそうともがくもじわりじわりと上に絡みついていく。足に灯る炎もお構いなしに這い上がってくる手は、雁字搦めのように身じろぎすらも許さない。

 必死で抜け出そうと火力を上げ焼き切ろうとしてみたものの焼き切れる様子はない。もはや動くことすらもできず、黑蜘蛛がのそりのそりとその長い補足を動かしてよってくるのを呆然と見つめることしかできなくなっていた。

 力の限り吹き飛ばしたユーリに任務の成功を託して、一瞬ちらりと彼らが飛ばされていった空を見つめる。しかし、朝日の煌々とした光によってその姿を確認することは叶わなかった。

「好きな奴くらい、テメーで守れってんだ……____」


 世界がどうの未来がどうのとか……どうでもいい。大切な人間の一人でも守って見せろ_____



 風の音が耳に届く。真下の荒野には突如として胴体が50m程もある黒く巨大な蜘蛛が姿を表し、ゆっくりとヘレンに近づいていくのが見える。歪な形状をした歩足が踏みしめるたびに地面が大きく潰れ、離れると同時に弾力があるのか波打つようにもとに戻る。まるでそこには薄い膜しかないようにすら感じられ、膜の上を黒く巨大な蜘蛛が移動しているようだ。さらに言えば、荒野の面積が増えていく。正確に言えば、みるみるうちに木々が腐食されていっていた。あまりにも奇妙な光景だった。しかし、もう豆粒ほどの大きさに見えるヘレンはそんな光景を目の前に一歩も動く様子を見せない。

「あいつ……まさかやりあうつもりなのか?」

ヘレンが自ら残ったところを見ると、何か策があるのかもしれない。そんなことを考えつつも別れ際に見た彼の悟ったような表情が頭から離れない。


 考えている間にも荒野から見る見るうちに離れ、1kmほど離れた所で斬馬刀の推進力が急激に衰え、同時にアイリを包んでいた防火衣が消失した。術者の効果範囲から出たからだろう。そこでようやくユーリは思い至った。

「もしかして……そういうことなのか……?うわっと_____」

直後、ユーリとアイリが乗っている巨大な斬馬刀は落下を始めていた。ユーリは体勢を崩しながらもアイリを抱きかかえると魔法で何とかスピードを殺すと、一瞬冷静になって着地地点に強めの風のクッションを作り上げなんとか片膝をつきながらも着地を成功させた。遅れること数秒、近くの草むらにザクリと斬馬刀が突き刺さった。

「_________っぅう……」

 地面に足をつけた瞬間。衝撃に体が悲鳴を上げる。その衝撃を堪えユーリは嘆息気味に息を吐きだし、視線を周囲に泳がせユーリは目を見開いた。

「おい……ここって……」


 緑の芝生がどこまでも続き、朝露が日の光を反射する草花。中央の小高い丘には木が一本だけ生え。それが今は、太陽との間にあり木漏れ日が黄金色に輝く。暖かで穏やかないつもの草原が目の前に広がっていた。半日前の日常をそのままに残した光景は、遥か昔のような錯覚を覚えさせ、油断すると涙が出そうになった。

「このタイミングで……ここに出たくはなかったな______」

「__________ん……っ、え……ユーリ?」

 腕の中から寝起きなのか少し掠れたような微かな声が聞こえた。覗き込むと、ちょうどアイリと目が合った。んで……このタイミングで起きんのも反則だろ……内心でそうぼやきつつ、笑顔で返事をすることにした。

「っ……起きたのか。おはよ、アイリ……」

アイリは、目が覚めてきて、距離が異常に近いことに気が付いて、微かに頬を染め視線をそらした。

「う……うん、おはよ_____って……ここどこ?……なんで、ユーリが?」

「ここは、いつもの草原だよ……」

そう答えるとアイリは不思議そうな表情を浮かべた。

「私、家に帰ったはずなのに……どうして……」

アイリはそう呟いて首を傾げた。

「…………覚えてないのか_____」

ユーリは口の中だけでつぶやいた。

 アイリが目覚めて微かに安堵したのか立ち上がろうとして急に力が抜け、座り込みそうになって、しかし、安堵している余裕などない。ことに気が付き、何とかこらえて体制を立て直した。俺たちがいつもの草原に居るとすればここは、東側。つまりは……ここは……敵陣の目の前で、俺たちは、自ら戦火の只中に飛び込んでしまったということだ。たとえ、結界がまだ動作していたとしても……こんな思考をしていることは、もはや時間の無駄。なら、やるべきことは、

「すぐにここを離れねと」

「えっ?」

 急につぶやいたユーリに心配そうに顔を見上げる。

「どうしたの?急に……」

「事情は後で説明するから。もうしばらく我慢してくれ」

「う……うん……」

アイリの答えを聞くとユーリはアイリを抱き抱えたまま森伝いに北に向かって走り始めた。

草原の北端から森の小道に入り山を一つ越えた先に街道が伸びている。そこを西に向かえば、ヘレンの言っていた合流ポイント。そこには俺たちを保護出来るくらいの戦力が集められているはずだ。


朝日の煌めく草原を男が女を抱き抱えて必死の形相で走り抜ける。

アイリを抱える腕が徐々に痺れ感覚を無くしていく。心臓がいつに無く早く律動し吸い込んだ酸素を取り入れた先から消費していく。平時ならそれほど乱れることのない呼吸は荒い吐息を吐く。それというのもカルトからの脱出に相当の魔力を浪費してから休むこと無く逃げていたからだろう。疲労は溜まるばかりで、汗が額を滑り落ちる。ユーリは俯き気味に走り続けた。

1度呼吸をする度に視界が明滅を繰り返して、耳にはキーンという耳鳴りが起き周りの音も良く聞こえない。

「__リッ?ユー__‼︎ユーリッ‼︎」

冷たい何かが頬に触れてようやく自分が呼ばれている事に気が付いた。ハッと腕の中のアイリに視線を落とした。

「________」

腕の中でアイリが何かを叫んでいる……しかし、上手く聞き取れない……仕方が無く彼女の唇の動きに注目した。

(ゆうり どこにむか てるの)

ユーリ、どこに向かってるの?

「どこにって……っ!??」

アイリの意味のわからない問いに咄嗟にユーリはようやく顔を上げた。驚きのあまり、一瞬呼吸が止まり声も出なかった。それほどに驚愕の光景が目の前にあった。確かに、間違いなく、北に向かって一直線に走っていた。なのに目の前には


何時もの草原の木があった__

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